───側にいたいよ

あなたの側に、いさせて。

それだけで、何もいらないから



Envy (5)
───三蔵様が連れてきたのは間違いだったかと仰られていました。



漕瑛の言葉が頭の中に響き渡る。




暗い暗いあの岩牢で求めて止まなかった太陽の光。
長い、永劫とも思える止まった時間の中で焦がれて止まなかった外の世界。
その全てを与えてくれた金の輝き。
いつも不機嫌で無口で、でも誰よりも優しい金色の太陽。


その太陽の三蔵が、自分をこの寺院に連れてきたことを後悔している。
そのことが悟空の心を貫いた。




外に連れ出されて以来、その手に触れるもの、その目に映るもの、その耳に聞こえるもの全てが、悟空を幸せへと導いてくれた。
何より三蔵が側に居てくれるだけで、輝く世界はより輝き、悟空を幸せな気持ちでいっぱいにしてくれた。
その三蔵が悟空を側に置くことを後悔し始めているという事は、すなわち悟空が三蔵の側に居られなくなるということ。
それは、悟空を絶望の淵へ追いやる。


だが、三蔵の口から直接聞いたわけでは無いことに遅蒔きながら気付いた。

「三蔵から聞いた訳じゃねぇし……」

落ち込んでゆく気持ちを奮い立たせ、悟空は三蔵の執務室に向かった。
三蔵の口から直接聞くまでは誰の言うことも信じないと、心に決めて。










悟空が、漕瑛の言葉に不安を抱き始めたその同じ頃、三蔵の元に一つの報告がもたらされていた。


「三蔵様、あの悟空がまたその…」
「何をしたんだ?あの猿は」

言いよどむ漕瑛に三蔵はうんざりした問いを返した。

今日は珍しく側にいないと思ったら、また何かしでかしたらしい。
漕瑛の言いにくそうな態度からかなりなことをあの小猿はしでかしたのだろうことが、容易に想像でき、三蔵は何時にない疲労を感じた。

「はい。実は今日回廊で立ち話をしていた僧侶に殴りかかったと、その…報告が来まして…」
「何だと?」

漕瑛の言葉に三蔵は一瞬、目を見開いたが、すぐに報告する漕瑛を睨むように見つめた。
漕瑛は、三蔵の視線にドキリとしたが、素知らぬ顔で先を続けた。

「ご、悟空がそのようなことをするはずはないと思いまして、その殴られたという僧侶に事実を確かめましたところ、確かに殴られたと…」
「傷は?」
「痣ができた程度だそうですが、やはり妖怪は妖怪と・・・ほ、本性を現したと、結構な騒ぎになっております」
「で、悟空は?」
「今日は私も姿を見かけておりませんが、もうすぐ夕餉の時刻ですので、こちらへ戻ってくると思いますが」

三蔵は、漕瑛の報告を聞き終えると、深々と椅子に身体を沈めた。

「三蔵様?」

訝しげな漕瑛の声に三蔵は顔を上げ、

「猿が、坊主を殴った理由は何だ?」

嘘は許さない、と漕瑛の顔に視線を据えた。

「なにぶんにも突然だったそうで、どうしてなのか見当も付かないと僧侶は申しておりました」
「わかった」

漕瑛の言葉に嘘はないと、そう読みとったのか、三蔵はため息を吐く。
その三蔵の疲れた仕草に漕瑛は、心配そうに問いかけた。

「何か、お飲物でもお持ち致しましょうか?」
「いや、いい」

三蔵がここまで疲れるのは、悟空が起こす騒ぎの所為だと、漕瑛の淀んだ心に憎悪の汚物が溜まっていく。
大切な三蔵の心を苛む忌むべき存在の悟空を早く排除しなければ、大切な三蔵が倒れてしまう。
漕瑛の心の影はまた、濃くなった。




漕瑛のそんな気持ちなど知らぬ三蔵は、またぞろ僧正どもがしわ首揃えて、抗議に来るのをどうやってやり過ごすか考えていた。
悟空が寺の坊主を殴ったのはおそらくでっち上げだろうと、それを知らない漕瑛の耳に入れ、自分のところへ持ってこさせ、悟空をこの寺院から追い出す算段でもしたのだろうと、三蔵は考えていた。
三蔵の考えは見事に真実を言い当てていたが、首謀者が目の前で三蔵を気遣わしげに見ている側係の漕瑛だとは三蔵とて、思いも寄らなかった。
そう三蔵が思う程度には三蔵の信頼を漕瑛は手に入れていた。


そこへ、タイミング良く、いや悪く悟空が戻ってきた。

「さんぞ、ただいま」

明るい声で入ってくる。


その姿を見た途端、何時の間に椅子を立ったのか、漕瑛も悟空すら気が付かない内に三蔵は扉の前に立つ悟空の側により、どこから出したのかわからないハリセンで、悟空の頭を力一杯殴りつけていた。
乾いて澄んだ小気味のいい音が、執務室に盛大に響き渡る。

「い、痛いってば!さんぞ、さんぞうってば・・!!」

頭を押さえて踞る悟空の姿にようやく三蔵は、ハリセンで殴ることを辞め、悟空を睨みつけた。

「てめェ、坊主を殴ったのは本当か?」

地の底から響くような声音で、悟空に問いかける。
悟空は痛む頭を押さえて、怒りを湛えた三蔵を見上げる。

「答えねぇか。それとも、答えられないのか?」
「…そ、そんなこと…」

答えかけた言葉が途中で惑ったように途切れた。
悟空の中に、昼間漕瑛から聞いた言葉が甦る。



───三蔵様が連れてきたのは間違いだったかと仰られていました。



自分は寺の僧侶を殴ってなんかいない。
寺院に来て半年あまり、陰口は色々聞いた。
陰湿な行為もたまにされた。
腹の立つことはたくさんあった。
相手を殴りそうになった事だってあった。
しかし、一度でもそんなことをすれば、それは三蔵の側から離されるということ。
そんなことは言われるまでもなくわかっていた。
だから、我慢してきた。
もう一度、あの暗闇へ戻されることがないように、精一杯自分なりに我慢してきたはずだったのに、どうして三蔵の元に殴ってもいない僧侶を殴ったと報告がきているのだろう。
たった今、自分をハリセンで殴った三蔵の剣幕は、自分が坊主を殴ったと疑っているからのものだと、悟空は容易に想像する事ができ、その事実に打ちひしがれた。

どうして……


───三蔵は、自分をこの寺院に連れてきたことを後悔し始めている


これ以上、三蔵に疎まれないようにするにはどうすればいいのか、悟空の出した結論は結局、悟空自身を追いつめてゆく事になる。
しかし、今の悟空にそこまで気が回ることはなかった。



「はっきり答えねぇか」

悟空の煮え切らない態度に三蔵の疲れた忍耐は限界ぎりぎりにきていた。
その紐が切れる寸前、悟空の信じられないような答えが、三蔵の耳朶を打った。

「お、俺…は、腹立って…殴った。ご、ごめん…さんぞ…」



殴っただと?


バカな割には、して良いことと悪いことの区別は誰に教えられたわけでもなく、ちゃんと持っていた。
寺の坊主どもが、悟空に関して決して良い感情は持っていないこともわかっていた。
それでも、心ない誹謗中傷などに悟空が怒ることはあっても、手を上げることは無いと、何処かでたかをくくっていた。


いや、信じていた。


それを───裏切られたと、三蔵は、己の中にあった悟空への無条件の信頼に驚きながらも同時にその事実に嫌悪した。


結局この小猿も一緒なのかと。


悟空を見つめる紫暗の瞳に侮蔑の色が浮かぶのを止めることができなかった。



うつむいたままの悟空に

「わかった。今日はもうその面見せるな」

投げ捨てるように告げると、三蔵は執務に戻った。
三蔵の言葉に悟空は大きく肩を揺らすと、何も言わず、うつむいたまま与えられた部屋へ戻って行った。


二人のやりとりを側で見ていた漕瑛は、おろおろとした様子を繕いながら、喜びに震えていた。

「…三蔵様、あの…」
「言うな。もう下がれ、このことに関しては、誰が何を言って来ても取り合うな。いいな」

三蔵の無感情な言葉に漕瑛は返事をすると、部屋を辞した。



執務室から自分の仕事部屋へ戻る漕瑛の顔は、嬉しさに緩んでいた。
執務室で見た三蔵の怒りに、悟空の打ちひしがれた様子に、漕瑛の心は浮き立つ。
もう少しの辛抱で、三蔵とのあの穏やかな日々が取り戻せる。

もう少しで─────




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