「どうしよう」
口から出る言葉はそれしかなくて。
三蔵が見せた侮蔑の色。
微かに揺れた紫。
殴ったりしてない。
大声で叫んで、否定したかった。
でも、できなかった。
三蔵が、自分を連れてきたことを後悔していると聞いたから。
三蔵に直接聞いたわけじゃないけれど、確かめられなかった。
寝台の影に踞るようにして膝を抱え、悟空は不安に身体を震わせていた。
次の日、三蔵は執務室に詰めかけた僧侶達に憮然とした表情のまま対峙していた。
三蔵がこの寺院に着任して以来、初めての事だった。
最高僧の執務室には、決められた側係と寺院の官長、僧正の位のもの、総支配の勒按以外が入室する事は許されてはいなかった。
それが例え、皇帝本人であろうとも、寺院の戒律が許しはしなかった。
その戒律が今日初めて、破られた。
悟空が僧侶を殴ったその為に。
妖怪が寺院にいる。
それも最高僧である三蔵法師の側に。
気高く、崇高で何人にも犯されない最も神に近き存在。
そんな三蔵法師の側に例え三蔵本人が拾ってきたとはいえ、不浄の物である妖怪の孤児が養われているなど許し難いことだった。
幼くとも妖怪は妖怪。
本性を現したのだ。
何時三蔵本人が襲われるかも知れない。
そんな危険因子は即刻、排除すべきだと、口々に悟空をなじり、三蔵に詰め寄る。
その姿の浅ましさに三蔵は、反吐が出そうだった。
ただでさえ、悟空が己の非を認めたことが三蔵の気持ちをささくれさせているというのに、この有様は何だ。
口々に悟空をののしる僧達の顔が、醜い歪んだ己の心を露呈している。
いい加減堪忍袋の緒が切れ、怒鳴ろうと口を開きかけた時、開け放たれた扉から漕瑛の声がした。
「何をなさっていらっしゃるのですか?」
一斉に声のした戸口を振り返る。
その視線に一瞬漕瑛はたじろいだが、引くことなく口を開いた。
「規律を無視して、このようなところまで押し掛けて一体何を騒いでいらっしゃるのですか?」
怒気を含む漕瑛の声にすぐ側にいた僧侶が言い募った。
「妖怪の子供が我らを襲ったのだ」
「そ、そうだ。だから三蔵様にお願いに上がったのだ」
「妖怪の子などさっさとどこぞへやって頂きたいと」
そうだそうだと、他の僧侶達も同調する。
漕瑛が口を開こうとしたとき、静かな三蔵の声が、響いた。
「わかった。考えよう」
「さ、三蔵様…」
しんと静まりかえった。
まだ、十五歳の華奢な三蔵の姿が何倍にも膨れ上がったようだった。
きつい差すような紫暗の瞳が僧侶達に据えられている。
白皙の美貌に増す威圧感。
「出て行け」
静かな声音に秘められた怒りに詰めかけた僧侶達の背筋を悪寒が走る。
青ざめた顔を見合わせて、ぎこちない足取りで僧侶達は三蔵の執務室を出ていった。
戸口に漕瑛だけが残っていた。
「三蔵様、あの…」
「てめぇも下がれ」
「…で、でも…あの…」
「うるせぇ!出て行け!!」
言い募ろうとした漕瑛に向かって三蔵は怒鳴ると、手に持っていた筆を投げつけた。
筆は漕瑛に届くことなく手前に落ち、乾いた音を立てて転がった。
漕瑛は、驚いたような傷付いたような顔を一瞬三蔵に向けた後、一礼して執務室を辞した。
一人になってようやく三蔵は息を吐いた。
体中から力が抜ける。
悟空を寺院に連れてきて半年あまり、すっかり悟空のいる生活に馴染んでいる自覚を三蔵は持っていた。
手放すことなどできない。
悟空が怒りにまかせて僧侶を殴るわけがないと信じているし、疑ってもいない。
それでも、悟空が寺院の僧侶を殴ったと認めた時、言い知れぬ怒りを感じ、悟空に裏切られたと感じたのもまた事実だった。
低俗な輩の思惑にのってやるほど馬鹿らしいことはない。
わかっている。
しかし、例えほんの少しの間でも悟空を自分から遠ざけなければ事態が収まらないことも十分過ぎるほどわかっていた。
わかってはいても、今悟空を自分の側から遠ざけることに納得する事はできない相談だった。
「バカ猿。何で認めやがった…」
あのとき、泣いても叫んでもどんなことをしても悟空が”殴っていない”と、主張していればいくらでも庇う手だてはあった。
自分の地位にものをいわせて黙らせることだってできた。
それなのにあの小猿は自分の罪を認めてしまった。
何とか追い出す口実を捜していた僧侶共にかっこうの餌を自ら与えたのだ。
飛びつくに決まっている。
下卑た表情で押し掛けてきた先程の僧侶達を思い出し、三蔵は忌々しげに拳を執務机に叩き付けた。
それは偶然。
でも楔は打ち込まれた。
不安に揺れる心に。
怯える気持ちに。
昨日の言い訳をしに悟空は執務室と寝所を繋ぐ扉の前に立った。
三蔵の口からはっきりと聞くために。
自分をここに連れてきたことを後悔しているのかと。
一緒に、側に居たらダメなのかと。
扉の前に立って逡巡する悟空の耳に聞こえてきたのは、大勢の人の話し声。
一様になじる声。
声───
そして、三蔵と押し掛けた僧達の会話を寝所に通じる扉の向こう側で悟空は聞いてしまった。
「考えよう」
そう言った三蔵の静かな声に、悟空は確信した。
───離される!
悟空は震えた。
身体が小刻みに震えて、歯の根が合わず、かたかたと音を立てる。
扉の前に座り込みそうになるのを必死でこらえ、悟空は自分の部屋に身体を引きずるようにして戻った。
「離される。三蔵から離される…ヤダよ、ヤダ…」
ぶつぶつと呟きながら悟空は寝台と壁との僅かな隙間に身体を押し込むようにして入ると、踞ってしまった。
月明かりが窓の外を彩る頃、ようやく三蔵は仕事から解放された。
昼間の忌々しい騒ぎを僧正達が聞きつけ、鬱陶しいしわ首を揃えて修行僧達の軽挙をわびながら、遠回しに悟空の排除を願い出た所為で、ただでさえ溜まりやすい書類が山積してしまったのだ。
悟空をこの寺院から排除する──追い出すという結論は三蔵ががんとして首を縦に振らなかった為に先へ持ち越された。
持ち越されただけで追い出さないと決まった訳ではない。
三蔵は何か解決策はないかと思いあぐね、深いため息を吐いた。
そこへ扉を叩く音がして、漕瑛が様子を伺うように扉を開けた。
「もう、お仕事はお済みでしょうか?」
「何だ?」
差すような視線が三蔵から返される。
その視線のきつさに漕瑛はひるみそうになるのをこらえ、食事を食べるかどうか伺いをたてた。
「いい」
そう言うが早いか、三蔵は寝所へ続く扉の向こうへ姿を消した。
後には、灰皿一杯の煙草の吸い殻がくすぶって細い煙を上げているだけだった。
三蔵は寝所に戻ると、居間としている部屋の長椅子に腰を下ろした。
考えることは悟空の事ばかり。
あの岩牢で見た悟空は、全てを諦めた瞳をしていた。
連れ出した後もたまに全てを諦めた瞳をすることがあった。
その瞳を見るたびに三蔵は、悟空を岩牢に閉じこめた相手に怒りを感じた。
どうしてやることもできないもどかしさと共に。
それが最近やっと、見なくなった。
だから、もうあんな瞳はさせたくない。
それなのに、こんな事になってしまった。
堂々巡りの思いに三蔵は、為す術もなく立ちつくす。
自分の考えに手一杯の今、悟空の声は届かなかった。
三蔵が悟空を手放さずに事を納める手だてを考え、思い悩んでいるその時、悟空はようやく寝台と壁の隙間から這い出てきた。
窓から差し込む月光に金の瞳が光る。
しかし、そこに有るのはガラスのような金色の瞳だった。
生気の輝きはなく、作り物めいた金の瞳。
月光に照らされる顔に表情はなく、そこに宿る色は諦めか、絶望か。
紙のように白い顔色はどうとでもとれて。
ひとつ、身に纏う空気は透明で儚げだった。
悟空は、壊れた機械仕掛けの人形のようにぎこちない動きで寝台の側にある小さなサイドテーブルに近づき、引き出しを開けると懐剣を取りだした。
それは魔除けと護身用に三蔵の眠る寝台の側のサイドテーブルに納められていたものだった。
その懐剣を偶然見つけたのは何時だったか。
不思議そうに美しい蒔絵の施された懐剣を眺めていて、それを見つけた三蔵に酷く怒られたのを覚えている。
その後、それが魔除けの呪を施された護身用のものだと教えられた。
二度と触らないと約束した懐剣。
懐剣を握った悟空の能面のような無表情の口元に笑みが浮かんだ。
嬉しそうな歪んだ微笑み。
そして夜半、悟空は寺院から姿を消した。
それは月の沈んだ後、音も立てずにその姿は闇に消えた。
声は、三蔵に届かないまま───
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