Envy (7)

寺院から連なる裏山の奥に悟空はいた。
手には懐剣を握りしめ、落ち葉に踞るようにして眠っている。
ざわざわと木立が揺れ、紅葉した葉が悟空の上に降り注ぐ。
その微かな音に悟空は身じろぎ、目を覚ました。

「…おはよう」

小さな声で挨拶をする。
その声に答えるように風が落ち葉を舞い上げ、悟空の側を通り過ぎていった。
悟空は、その風を追いかけるように視線を空へ向けた。


空は夜が明けたばかりの色をはいて、今日の天気を予感させた。


「いい天気になるんだ…」

呟く声にいつもの明るさはない。
悟空は握りしめていた懐剣に視線を移すと、その鞘を払った。
朝日に刃が光る。
綺麗にとぎすまされた懐剣の刃に映る悟空の顔から表情が消えた。
腕を差し出し二の腕にその切っ先を当てる。
ゆっくり少し力を入れて引くと、痛みと共に赤い線が引かれた。
そこからゆっくりと赤いものが盛り上がり、やがて腕を伝って流れ落ちる。
悟空はその様子をガラスのような瞳で見つめると、また、先に付けた傷とは違う場所に刃を当て同じように引く。
腕を伝う血が、悟空の白い腕に奇妙な模様を描いて流れ落ちてゆく。

「…痛いや…」

呟く瞳に感情が揺れる。
その痛みに縋るように傷付いた腕を抱きしめると、悟空はそこに踞った。


さんぞ…


口だけで形作られた言葉は、音になることはなかった。











一睡もせずに朝を迎えた三蔵は、寝不足で痛む頭をはっきりさせようと窓を開けた。
朝の冷たい空気が、幾分気分をゆるめてくれる。
三蔵は、疲れたため息を吐くとより頭をすっきりさせるべく、洗面所に向かった。




顔を洗い、幾分すっきりした三蔵は一晩考えて出した結論をもう一度、反芻した。
これはぎりぎりの妥協策。
もしこれが受け入れられなければ、三蔵に手段は一つしか残っていなかった。


大丈夫だ…


自分に言い聞かせる。
それは簡単なこと。
それは当たり前なこと。
誰に言われるのでもない、自然なこと。




あの日、あの声が聞こえた日から忘れもしない気持ち。
見つけたあの時、掴んだ手を離さないと決めた気持ち。

自分を見返してきた惚けたようなバカ面。
名前を呼ばれて嬉しそうに笑った。
暗闇を怖がり、一人になるのを嫌う子供。
置き去りにされることを嫌がる子供。

誰よりも離したくない存在。

答えは決まっていた。
たった半年、いや声が聞こえ始めた日から数えると数年。
こんなにも囚われている。
見つけたときの喜び、思い。
何ものにも代え難い存在。

だから、


……大丈夫だ


拳を握りしめて、三蔵は朝の光の中に佇んでいた。







漕瑛は悟空が昨夜、寺院を出たことに気付いていた。
しかし、そのことを三蔵に知らせるつもりはなかった。
三蔵に追い出される前に出ていったのだ、三蔵に知らせればきっと、探せと命じられるだろう。
そんなことは例え三蔵の命令でもしたくはなかった。
だから、何も三蔵に告げる事はしない。
漕瑛は、朝のお勤めを知らせるために三蔵の寝所の扉を叩いた。











悟空はぼんやりと寝所の居間の窓際に座って外を見ていた。
昨日、執務室の外で三蔵の言葉を聞いてから今までの記憶が無かった。
気が付いたらここ、居間にいたのだ。
左の二の腕には切り傷が二カ所、その他身体のあちこちに切り傷。
すでに血は乾いていたが、何時着いたのか思い出せなかった。

「俺、ここにいられないのかな…三蔵の側に居ちゃいけないんだろうか…」

開け放った窓から見えるニレの木に話しかけるともなく呟く。
するとニレの木がぼんやりした悟空を慰めようとしてざわざわと梢を揺らした。
それに答えるように微かに悟空の口元がほころぶ。

「…うん、俺大丈…夫…」

ぽろぽろと透明な滴がこぼれ落ちた。

「さんぞ…さんぞぉ…ここにいたいよぉ…」

力無く呟く言葉は、たった一つの願い。
まだ幼い身体を自分で抱きしめるように腕を廻し、悟空は窓の下に泣き崩れてしまった。

「うぇ…ひっく…っふ…」

やがて嗚咽は細くなり、止んだ。
悟空はそのまま窓の下に踞り、動かなくなった。
そんな様子を細く開けた扉の隙間から漕瑛が、見つめていた。


帰ってくるなんて…でも、もう少し、もう少し…


音を立てずに扉を閉めると、悟空に引導を渡すための準備を始めた。











居並ぶ寺院の上層部──幹部達を前に三蔵は一晩懸かって出した結論を告げようとしていた。
濃い紫の衣を纏い、白地に銀糸で麒麟を刺繍した袈裟を付けた三蔵は、静かな表情で官長以下、僧正達と向き合っていた。




十五歳。
あと半月もすれば十六になる今代の三蔵法師。
普通の修行僧が道場に入門する年齢。
町屋の子供ならまだ親元で暮らし、将来の夢を語り、友達と過ごしている年齢。
今まで、光明三蔵法師の傍らにあることだけが望みだった。
その支えを失った後は敵を討つことと経文を探すことが生きる理由だった。
だが今、三蔵は己の存在理由をかけられるほどの願いを持った。

それが、悟空。

あの小猿を傍らに置いておくためならば何だって我慢する。
何だって引き受ける。

十五歳。
三蔵の戦いが始まった。




「三蔵様、全員そろいましてございます」

勒按の報告に頷き、三蔵はひとつ深呼吸すると口を開いた。

「悟空はここに、この寺院に今まで通り置く」
「三蔵様、それは…」
「最後まで話を聞いてから、考えを述べよ」
「は、はい」

横から口を挟んだ僧正は、三蔵の静かだが有無を言わさない声に身を引いた。
三蔵は一同を見渡した後、言葉を続けた。
その内容に集まった幹部達は青ざめるやら、目眩を起こすものやらひとしきり騒いだ後、三蔵がそう決めたのなら従うことを承諾した。
そこに心からの賛同はなかった。




仏教界における三蔵の発言力は皇帝を凌ぐ。
どんなに納得がいかなくても、どんなに理不尽でも、縦社会であり、階級社会である仏教界に属するものは、三蔵法師の下知に従うように教育されていた。
それが最も神に近しい存在の三蔵法師の言葉だから。
それは神の言葉に等しいから。
その三蔵の下した結論に対してあからさまに反対するわけにもいかず、何より自分達は三蔵法師に近く使えているという自負を持っている寺院の幹部達は、渋々ながらも承諾したのだった。
三蔵は改めて己の地位の力を知った。
だからどうだと思わないが、今回は自分が三蔵法師であったことに感謝した。







「悟空、どうしたのですか?」

窓の下に踞った悟空に漕瑛は声をかけた。
漕瑛の声に小さく肩を揺らした悟空は顔を上げた。
力無く漕瑛を見上げる悟空の金色の瞳は泣きはらして、真っ赤だった。

「…泣いていたのですか?」
「えっ?!」
「目が真っ赤ですよ」
「あ…うん」

漕瑛に言われて悟空は目をこすった。
と、漕瑛の手に持った荷物に気が付いた。

「それ、何?」
「あ、これは…」

言いよどんだ漕瑛に悟空は不安げな、すがるような目を向けた。
漕瑛はそっとその荷物を差し出すと言いにくそうに悟空に告げた。

「これ、悟空の荷物です。…三蔵様があなたに渡して、裏の山門まで送ってこいと仰られました」
「…な…ん…て…?」
「ここから出て行けと、麓にあなたを引き取りたいと仰る方がいらっしゃるので、そこへ行くようにとのことです」
「う…そ……だ」
「悟空、三蔵様だってお辛いんです。でもこれ以上あなたをここへ置いておくことは無理だと…苦渋の決断だと仰られていました。だから、悟空…」

漕瑛の言葉はもう悟空には届いていなかった。
大きな瞳をこれ以上ないほどに見開き、ゆるゆると首を振ると立ち上がった。
そして、二、三歩歩いたかと思う間もなく、悟空は意識を失った。


───三蔵!




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