Envy (8)

寝所に続く回廊を三蔵は、走っていた。
寺院の幹部達に悟空を自分の側に置くことを認めさせて、ほっと肩の力を抜いたときその叫びは三蔵の心臓を鷲掴みにした。


───悟空!


焼け付くような痛みを胸の内に、後ろから追い立てられるような焦燥感に回廊を三蔵は寝所に向かって走った。
そして勢いよく寝所の扉を開けると、部屋の掃除をしていた漕瑛が驚いて振り返った。

「さ、三蔵様」
「悟空は?」
「あっ、その…」

うろたえたように目を伏せる。
三蔵は目を伏せて言いよどむ漕瑛に近づくと、その肩を掴んだ。

「何だ、何を隠してる?」
「……悟空は、その…三蔵様にこれ以上迷惑はかけられないと、その……」
「出ていったのか?」
「は、はい」

その答えに三蔵は漕瑛を突き飛ばすようにして離れると、きびすを返した。
悟空が出ていったと聞いた途端、顔色を変えて寝所を飛び出そうとする三蔵を漕瑛は、すがりつくようにして止めた。

「お待ち下さい!待ってください!!」

必死の漕瑛の言葉に三蔵は、自分の腕を掴んでいる漕瑛を振り返った。

「何だ?」

見返す三蔵の表情は訝しげに歪められている。

「自分から出ていったものをどうなさるおつもりですか。悟空は、これ以上ここには居られないと、止める私を振りきって出ていったのです。そんな悟空を連れ戻して、どうなさるおつもりですか?!」
「喧しい!てめぇには関係ねえんだよ。あいつは、俺が拾って来たんだ。俺の許し無しに俺の側から離れることは許さねぇ」


三蔵のその言葉に漕瑛の心の最後の糸が切れた。


「私がお側にいるのではいけませんか?私では、あの子供の代わりにはなりませんか?」
「てめぇ、何言って……」
「三蔵様!!」

漕瑛はすがりついた腕もそのままに三蔵にむしゃぶりついていった。
華奢な三蔵は、自分より体格のいい漕瑛の腕の中に簡単に閉じこめられてしまう。

「離せ!」
「嫌です!」
「離せ!漕瑛!」
「嫌です!!」

身をよじって漕瑛の腕を振りほどこうと暴れるが、何の効果もなくますます漕瑛の腕に三蔵は絡め取られてしまう。
漕瑛は目の前にある三蔵の白い首筋に顔を埋めた。
首筋に触れた湿った感触に三蔵は総毛立った。

「…くっ!離…せ!!」
「誰にもあなたは渡さない!」

唇を噛んで三蔵は抗う。
漕瑛がもたらす湿った感触は次第に首筋から胸へと下りてゆく。
虫が這い回っている様で、三蔵は吐き気を覚えた。
漕瑛は構わず組み敷いた三蔵の身体をなで回し、行為の先へと進んでゆく。
荒い息が三蔵の耳朶を打つ。

「このっ!」

抗う三蔵に馬乗りのなると、漕瑛は三蔵の着物の襟を引きむしるようにはだけさせた。
日に焼けていない白い肌が顕わになる。
一瞬、ほんの一瞬漕瑛の力が三蔵の肌の白さに緩んだ。
その隙を三蔵は渾身の力を込めてついた。

「この下衆が!」

漕瑛は股間を押さえて踞った。
肩で息を吐きながら三蔵は立ち上がると、容赦なく踞る漕瑛にけりを入れ、叩きのめす。
低いうめき声が漕瑛の口から漏れるようになって、ようやく三蔵はその手を止めた。
そして、息も絶え絶えに転がる漕瑛の胸ぐらを掴むと顔を自分の方に向けた。

「二度とその面、俺の前に出すな。出て行け!」

突き倒すように掴んだ手を離すと、乱れた着物もそのままに三蔵は悟空を探しに寝所を出ていった。
後には、痣だらけになった漕瑛の漏らす嗚咽だけが、聞こえた。











微かな明かりだけが差す暗い部屋で悟空は気が付いた。

「…ここは…?」

起き上がって周囲を見渡すが、明かりが漏れる小さな窓の側以外は暗い闇に閉ざされていて、ここが何処なのかわかるものは何もなかった。
悟空は床に座ると、明かり取りの小さな窓を見上げた。
天井のすぐ下に開けられた窓からの明かりにまだ陽が高いことがわかる。
抱え込んだ膝頭の上に顎を乗せて、悟空は丸まった。




三蔵の言葉を漕瑛を通じて聞かされた後、あまりのショックに気を失った。
気が付くとここにいた。

どうしてここにいるのだろう?
気を失った自分を誰かが運んだのだろうか。
誰が?
寺院の僧侶達は自分に触れることを嫌がっているから、ここへ悟空を運んだのは漕瑛か、三蔵だろう。

「…三蔵、ホントに俺のこといらなくなっちゃったんだ……」

そう考えるだけで涙が溢れてくる。

「さんぞ…さん…ぞ…」

三蔵の名前を壊れたレコードのように呼び続ける。
そのうち、悟空の小さな身体が小刻みに震えだした。

「……夢、見てるのか…な。次、目醒めたら岩牢に戻ってるのかな・・」

歯の根が合わなくなるほどにがたがた震える悟空は、突然頭を壁に向かってぶつけ始めた。
がつんと額の金鈷と壁とがぶつかる鈍い音が部屋に響く。
力一杯ぶつける衝撃に金鈷の縁が触れる額が切れて血が流れ始めても、悟空は壁に頭をぶつけることを止めなかった。




自分の身体を自分で傷つける行為。
それは記憶を封じられて封印されて間もない頃、悟空がとった行動。




覚えているものは名前だけ。
後は、胸に開いた巨大な喪失感と居たたまれないような罪の意識。
自分がいま生きているという事を確かめるためには、痛みしかなかった。
岩牢の壁に頭をぶつける。
尖った岩に腕を突き立てる。
岩の格子を壊そうとして、わざと呪符のもたらす激痛に身を焼く。
それらの行為がもたらす痛みが、今、悟空が生きていると言う証となった。
幾度となく繰り返される行為も、やがて悟空の心を支配し始めた”諦め”が止めさせた。

胸にある喪失感と罪の意識。
絶望と言う名の諦め。
そして、孤独。


幼い心を蝕むには有り余るほどの時間を悟空は過ごして、あの日、太陽に出会った。


明るい日向を、暖かなぬくもりを、求める心を満たす優しさと。
太陽と共に訪れた解放は、悟空を生き返らせた。
太陽の側にいられるのなら、どんなことでも我慢できた。
でも、それももう終わり。
悟空の太陽は悟空を照らすことを拒絶した。
行き場を失った心は、過去へと戻るのだろうか。
それとも、夢の褥に身を任すのか。
答えのないまま、悟空の心はその渇望がゆえに壊れようとしていた。











三蔵は、はだけた着物を無造作に直しただけで、悟空の声を追って寺院の遙か奥へと走っていた。




三蔵の心に直接響く声なき声。
今は、はっきりと自分を呼んでいる事が解る声。
全身全霊をかけて呼ぶ声。
魂に直接届く声。


───三蔵!


今にも壊れてしまいそうなぎりぎりの危うさで三蔵を呼んでいた。
どうか、自分が辿り着くまで壊れないで欲しい。
また失えば今度は立ち直れない。
ようやく見つけた何ものにも代え難い存在。




三蔵はようやく、悟空のいる建物の扉の前に着いた。




その建物は昔、穀物倉庫として使われていた煉瓦造りの円柱の形をしたものだった。
扉は赤錆の浮いた鉄で、取っ手には大きな鍵がかけられていた。
三蔵は懐から銃を取り出すと、迷わず鍵に向けて撃った。
堅い金属音を響かせて鍵は砕け、石床の上に散らばる。
三蔵は銃をしまうと扉に手をかけ、力一杯錆び付いた鉄の扉を押した。
扉は歯の浮くような金属音を響かせて動いた。
ようやっと人一人通れるぐらい開いた扉の中に三蔵は、身体を滑り込ませた。


中にはいると何かをぶつける鈍い音がしていた。


「悟空、何処だ?」

三蔵は扉から漏れる光を頼りに、音のする方へ歩いてゆく。

「悟空?」

扉からのびる明かりに浮かび上がった悟空の姿に三蔵は息を呑んだ。




壁に頭を打ち付け続ける狂った瞳をした子供。
血だらけの顔に壊れた微笑みを湛えた子供。




三蔵は我に返ると、打ち付ける悟空の頭と壁の間に手を差し込んだ。
その手に力一杯悟空の頭がぶつかる。

「……っつ!」

痛みに顔を歪めながら、三蔵はその間に腕を、次に身体を差し込んで、悟空の血だらけの頭を受けとめ、抱きしめた。

「ごく…う。悟空、悟空!」

悟空の名を呼びながら抱きしめる腕に力を込める。
三蔵の衣や袈裟が悟空の血で染まってゆく。

「悟空」

三蔵はゆっくり何度も悟空の名を呼んだ。
やがて、腕の中の狂った瞳の子供の動きが止まった。

「……悟空…」

だらりと伸ばされていた悟空の手が、三蔵の衣を掴んだ。

「悟空、もういい、もういい」

三蔵の腕の中で悟空が身じろぐ。

「悟空」

三蔵の腕から起き上がり、顔を上げた。
三蔵は衣で、血だらけの顔を拭ってやる。
悟空は惚けたような顔を三蔵に向けていた。

「悟空、もういい。お前は俺の側に居るんだろう?」

三蔵の言葉に悟空の金の瞳に光が宿る。

「……さ…ん……ぞ…?」
「ああ、そうだ」

金糸が揺れた。

「…さん…ぞ?」
「ああ」

夜明け前の瞳がほころぶ。

「…さんぞ…?」
「ああ、悟空」

金色が揺れた。

「さんぞ?」
「ああ」

紫が揺らいだ。

「さんぞ?」
「ああ、側に居ろ。何処へもいくんじゃねえぞ」
「さん・・ぞぉ・・」

涙が溢れた。


溢れる涙が血を洗い流す。
零れる嗚咽が痛みを流す。
触れるぬくもりが不安を拭う。
名前を呼ぶ声が孤独を埋める。


三蔵にしがみついて悟空は声を上げて泣いた。




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