側にいたい

あなたの側に

だだ,それだけが願い

それだけが,たった一つの願いだったのに…



Envy (9)
目が覚めて最初に見たのは、今にも泣きそうな紫の瞳だった。

「さんぞ…?」

不思議そうに名前を呼ぶ悟空の青ざめた頬に触れると、三蔵は詰めていた息を吐いた。




自分で自分を傷つけるほどに追いつめられていた悟空。
自分のことで手一杯で、気付いてやれなかった。
そのことが三蔵を苛む。
寝台に横たわっている悟空の身体は、自分で傷つけた傷が所構わず着いていた。
診察した医者が呆れるほどの数。
体中を包帯や絆創膏で覆われた小さな身体。
もう二度と、こんな目には遭わせない。
もう二度と、こんな思いはさせない。
密やかに三蔵は己に誓った。




「さんぞ?」

じっと自分を見つめる少し潤んだ紫に悟空は不安になる。


───側に居ろ。何処へもいくんじゃねえぞ


あの言葉は本当なのだろうかと。


でも───


今、頬に触れる三蔵の手は確かに優しくて、暖かい。
悟空は、頬に触れたままの三蔵の手に自分の手を重ねるとまた、三蔵の名を呼んだ。

「三蔵…」
「…ああ」

返事が返って来た。
そして、

「何処か痛むか?」

と、気遣わしげに聞いてきた。
その言葉に一瞬悟空は目を見開き、嬉しそうに笑った。

そして、確信する。
自分はこの人の側に居ても良いのだと。

もう、不安はなかった。


「ううん、大丈夫」
「そうか」

静かに呟くと三蔵は、手を離した。
その手を慌てて悟空は掴んだ。

「何だ?」

少し驚いたような顔をして三蔵は悟空を見やった。
悟空は自分を見返す三蔵の瞳が何時にもまして優しい色をしていることに気が付き、
また嬉しくなった。

「…もうちょっと手、繋いでて……」

上目遣いでねだる悟空に三蔵は小さく頷いた。

「ありがと」

その手にすり寄るようにして悟空は目を閉じた。
程なくして穏やかな寝息を立て始める。
三蔵はその寝顔を何時までも見つめていた。













漕瑛は自分の部屋で三蔵の名前を愛しげに呼び続けていた。




座り込む漕瑛の周囲には切り刻まれた悟空の服が散らばっていた。
原型を留めないほどに切り刻まれたそれに漕瑛の憎しみの深さが見える。
手にしているのは三蔵が着ていた白衣。
それに頬刷りして、三蔵の名を囁く。
浮かべた笑顔は邪気を孕んだ歪んだ微笑み。
三蔵に殴られ、蹴られた傷が鬱血して紫色に腫れていた。

「三蔵様…三蔵様…」

三蔵に触れた手が、三蔵の肌触りを思い出す。
三蔵に口づけた唇が、三蔵の甘やかな香りを思い出す。

「あなたは私のものだ。あんな汚らしい妖怪になぞ渡すものか」

幽鬼のように立ち上がる漕瑛の瞳に正気の光はもはや無かった。
そこに灯るのは三蔵への妄執と悟空への怨嗟。
漕瑛は文机によろよろ手を伸ばすと、一番上の引き出しを開けた。
そこには三蔵の供をするとき、護身用に身につける短剣が入っていた。
漕瑛はそれを掴み出すと、鞘を払った。
短剣の刃が鈍い光を、漕瑛のどす黒く変色した顔が受ける。

「もうすぐあなたを惑わす妖怪を消して差し上げます。ねえ、そうすれば三蔵様と私、二人だけの生活がまた始まるのです」

嬉しそうにそう言うと、漕瑛はにっと笑った。
その笑顔は鬼のそれに酷似していた。






狂った頭でも漕瑛は他の僧侶達に見咎められて、三蔵の側係を替えられてはならないと考え、顔の痣が消えるまで部屋から出ることはなかった。



その間に、三蔵の新しい側係が三蔵の意向によって決められ、漕瑛は解任されてしまっていた。
漕瑛を解任するに当たって三蔵はその理由を告げようとはしなかったが、ただ一言、

「知りたきゃ、本人に訊け」

と言ったきり、それ以上は何を訪ねても何も答えようとはしなかった。




傷の癒えた漕瑛は、自室の扉に手をかけたままその声の内容にその場を動く事ができなくなった。

「漕瑛のヤツ、三蔵様の側係を辞めさせられたらしい」
「だってな。なんで辞めさせられたんだ?」
「三蔵様がヤダって言ったらしいぞ」
「へえ、三蔵様が」
「ああ、で、明日から笙玄がその係りに着くんだとよ」
「笙玄が選ばれたのか」
「ああ、だと」

通り過ぎてゆく声に漕瑛の瞳はこれ以上無いほどに見開かれ、扉にかけた手は小刻みに震えていた。

「三蔵様…どうして…」

そう呟くやいなや、漕瑛はかじりつくようにして扉を開けると、三蔵の居住区へ向かって走るのだった。




三蔵の居住区と僧正達の居住区へと分かれる回廊のすぐ近くで漕瑛は、もうすぐ悟空が三蔵に連れられて僧正達に会いに行くことを知った。
すぐに漕瑛は僧正達の居住区へと続く回廊を抜け、境を示す大扉の影に身を潜めた。

しばらくすると三蔵に連れられた悟空が神妙な面もちで自分に近づいてくるのが、回廊の向こうに見えた。
悟空が不安げに三蔵を見やると、三蔵は悟空を安心させるように軽く頭を撫でてやる。
それに嬉しそうに頬笑みを返す悟空に三蔵が纏う空気が和らぐ。

「妖怪め!」

そんな悟空の姿に漕瑛は憎しみの籠もった血走った目を向けた。
漕瑛の後ろからは、三蔵を出迎えるべく僧正達が近づく声が聞こえてくる。
僧正達が大扉に着くより早く、三蔵と悟空が目の前に来た。




それは、一瞬───
閃く刃と子供の悲鳴。
押し寄せる足音と叫び声。
ほんの一瞬の出来事。




取り押さえられた漕瑛が見たものは、白い僧衣を朱に染め、叫ぶ悟空に抱きかかえられた三蔵の姿だった。


「そんな…」


漕瑛の信じられないと言う呟きが聞こえたわけでは無いだろうが、三蔵が悟空につかまって身体を起こし、警備の僧兵達に取り押さえられている漕瑛に懐から出した銃の銃口を向けた。

「さんぞ、さんぞ」
「うるせぇ、猿」
「で、でも…」
「いい」
「う…うん」

心配する悟空を黙らせると、三蔵は漕瑛に向けて引き金を引いた。
銃弾は、床にうつぶせに押さえつけられた漕瑛の顔のすぐ横に着弾した。
弾によって弾けた石が漕瑛の顔を打つ。

「さ、三蔵様!」

慌てた僧正達が三蔵にそれ以上の行為をさせないよう名を呼ぶ。
その声に三蔵はじろりと視線を向けただけで、何も言わず悟空の手を借りて立ち上がった。

「三蔵様、傷の手当てを!」

駆け寄ろうとする僧正やそのお着きの僧達に

「殺さないだけ有り難いと思え」

地を這うような声音でそう告げると、三蔵は何事もなかったように傷もそのままに悟空を促してその場を立ち去っていった。
回廊の向こうに二人の姿が見えなくなるまで、誰も動く事ができなかった。




最後に見た三蔵の冷たく底知れない怒りを孕んだ紫暗の瞳が、漕瑛を絶望の淵に突き落とした。

「…三……蔵様、三蔵様…、三蔵様──っ!!」

絶叫が漕瑛の口から溢れ出る。
そのあまりな声にその場にいるもの全てが顔を歪め、息を潜めた。

「ああ、あ、あ、うあぁ────ぁああっ!!!」

血を吐くような叫び声を上げて暴れる漕瑛を化け物を見るような目つきで僧正達は見やり、僧兵達に漕瑛を連行するように命じた。
叫び声を上げ、三蔵を呼び、後を追おうとする漕瑛に縄が打たれ、漕瑛は僧兵達に引きずられて行った。











寝所に向かう三蔵の後を泣きそうな顔で悟空は歩いていた。
その背中を微かに聞こえる漕瑛の叫びが打つ。

突然、扉の影から現れた人影が自分に向かって短剣を振りかざしてきた。
その突然の出来事に動けなくなった悟空を突き飛ばすように白い背中が見えた。
突き飛ばされて尻餅をついた悟空の上に白い固まりが覆い被さってくる。
抱き留めた手になま暖かい感触が広がる。

それは、血。

その赤い色に一瞬、悟空は目眩を起こした。
その一瞬に見た赤い景色。
失った記憶の断片。
すぐにそれは消えて、後には理由のない不安が残った。




三蔵は悟空を庇った自分に戸惑っていた。
漕瑛に刺された傷は、脇腹をかすっただけで、出血の割には大したことはなかった。
その傷の痛みよりも悟空を庇った自分の行為に対する気持ちのざわめきが痛かった。

ざわめく気持ち。
それがどういう種類のものか、何となく解ってはいたが、認めたくはなかった。
たった半年。
いや、見つけてすぐ。
それより、声が聞こえた瞬間から。
心の奥に生まれ、密やかに育っていたこの気持ち───




ぐっと拳を握ると、三蔵は立ち止まって悟空を振り返った。
急に立ち止まった三蔵に驚いて、悟空も立ち止まる。

「おい、猿」
「な、何?」

呼ばれて見返してきたいまにも泣きそうな金の瞳に、三蔵の顔が映る。
見上げた紫暗は柔らかい色を湛えて、静かに悟空を見つめていた。

「着替えたら、飯食いに行くぞ」
「えっ?で、でも傷…」

そう言いながら三蔵の僧衣の赤く染まった部分に恐る恐る手を伸ばす。

「気にするな。何ともねぇ」
「でも…」
「てめぇ、飯はいらねえのか?」
「いるけど…でも…」

不安に色濃く染まった顔で三蔵を見返す悟空に三蔵はため息を一つ吐くと、

「バカ猿」

そう呟いた。
そして、うつむいてしまった悟空を抱き寄せると、自分の胸にその頭を抱き込んだ。
悟空は三蔵の行動に驚いたのも一瞬、抱き込まれた三蔵の胸から聞こえる心臓の音に耳をすませた。


力強いリズムを刻む三蔵の心臓。
その音は確かに三蔵が生きているという証。
悟空はそっと三蔵の腰に手を回した。
悟空のそんな仕草に三蔵は目を細めて、微かに笑った。




やがて、

「わかったか?」

と、言外に何処へも行かないと、含ませて悟空に問う。

「…うん」

顔を上げ、頷いた表情にもう不安の翳りは無かった。

「行くぞ」

身体を離し、歩き始めた三蔵の背中を悟空は追いかける。

たった一つの輝きを見つめて。

追いかけてくる足音を三蔵は、疑わない。

たった一つの叶えられた願い。




end

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