花束を君に (2)

「お、お茶入れてきます」

悟空の隣に座った金蝉に耶斗はそう言うと、逃げるように台所へ走って行った。
その背中を金蝉は楽しそうに見送った後、悟空へ向き直った。

「悟空は、珍しい瞳をしているのだね」
「えっ?」

覗き込む金蝉の紫暗を見つめ返して、悟空は小首を傾げた。

「金色は世の凶兆を表すと言われているのだよ。知らなかったのかい?」
「きょうちょうって…何?」

悟空の質問に、今度は金蝉が小首を傾げた。
その仕草に金糸がさらさらと肩から流れ落ちる。
その光に一瞬、悟空は見惚れた。

「それはね、世の中に悪いことが起こる前触れを示すのだよ。でも悟空の瞳はこんなに綺麗で澄んでいるのだから、凶兆より吉兆だね」

そう言って金蝉は、よくわからない顔つきの悟空の頭を軽く撫でた。
途端、悟空の心臓が撥ねる。
三蔵に頭を撫でられてもこんな事はなかったのに。
悟空は早くなる心臓の鼓動にどうしていいかわからなくなり、慌てて椅子から立ち上がった。
その突然の悟空の態度に、今度は金蝉がびっくりする。

「どうしたの?」

見つめられる顔が火照ってくるのを意識しながら悟空は、

「や、や、耶斗、お茶入れたか…み、見てくる」

つっかえながらそれだけ言うと、脱兎のごとく台所へ飛び込んで行った。
その姿に、金蝉は喉を鳴らして笑った。




台所に飛び込んできた悟空に、耶斗はびっくりして危うく金蝉のために入れたお茶をひっくり返すところだった。

「どうしたの?悟空」
「あ…うん。金蝉って、めちゃめちゃきれーなんだな。俺、もうドキドキしてさ、一緒に居られなくなった…」

そう言いながら耶斗の足下にへたり込む悟空に、耶斗は幸せな笑顔を浮かべた。

「でしょ、僕も金蝉の前に出るともう、どうして良いかわかんなくなるんだ。でも、金蝉は優しいからそんな僕でも暖かく接してくれるんだよ」
「…うん」
「あの人が、この世で僕の一番大切な人なんだ」
「う…ん…」

耶斗の誇らしげな言葉を聞く悟空の胸の内に、もやもやしたモノが生まれた。
それは、どこか気分の暗くなるモノで、じっと持っていると悟空の気持ちを悲しくさせるモノでもあった。
このもやもやがどこからくるのか、悟空にはよくわからなかった。
ただ、あの綺麗な金蝉は耶斗の大切な人で、悟空の一番大切な人は、三蔵。
そう言い聞かせないと、益々気持ちが暗くなるのをどうしようもなかった。

「お茶、入ったよ」

上から悟空を覗き込む耶斗に、悟空は小さく頷くと立ち上がった。
そして、居間に戻ってきた二人を金蝉は笑顔で迎えた。

「お茶…あなたの好きなジャスミン茶にしたけど、よかった?」

金蝉の前に湯飲みを置きながら耶斗が訊ねると、金蝉は構わないよと頷いた。
悟空と耶斗の二人は、金蝉の斜め向かいに仲良く並んで座り、三人のお茶会が始まった。





















開け放した窓から夕暮れを告げに風が入ってきて、悟空の髪を揺らした。
その風の知らせに、悟空は耶斗に帰る時間だと告げようと口を開いたが、それは言葉になる前に、金蝉に攫われた。

「悟空の髪は長いね。でも、綺麗に結ってある。誰にかに結ってもらうの?自分でするの?」
「ううん、俺、すっげぇ不器用だから三蔵が毎日、結ってくれるんだ」
「そう、三蔵さんは優しいのだね」
「うん!」

金蝉の言葉に悟空が満面の笑顔を浮かべて頷く。

金蝉と話せて嬉しい。
金蝉と一緒に居られて嬉しい。
三蔵と居るより楽しい。
三蔵の傍より安心・・・・・・。

悟空の奥底に生じたきしみが、やがて亀裂を生む。
自覚のない亀裂はやがて大きくなる。
それは悟空の心を蝕むほどに。

風が悟空の帰宅を急かすように窓から強く吹き込んできた。
その冷たさが悟空を現実に引き戻す。

「あ、帰らなきゃ」

窓から空を見上げて悟空は耶斗に帰宅を告げた。

「もう、帰るの?」
「うん。だってほら、もうすぐ夕焼けが始まるから。三蔵との約束だし…」
「そっか。約束は守らないといけないもんな」
「うん」

二人の会話を楽しそうに聞いていた金蝉が、帰り支度を始めた悟空に告げた。

「悟空、また、遊びにお出で。ここには子供は耶斗だけだから、お前が来ると耶斗も喜ぶからね」
「うん…」

頷きながら悟空は何かを決心したようにきっと、顔を上げると、金蝉に言った。

「金蝉は?金蝉は俺がまたここに来るのは嬉しい?」

悟空の何処か懇願するような言葉に、金蝉はそれはそれは嬉しそうに笑うと、悟空をやんわりと抱きしめた。

「もちろん。お前と居るのは楽しいよ。だから、私も耶斗と一緒にお前を待っているよ」
「ありがと、金蝉」

金蝉の腕の中で悟空は、安心した笑顔を浮かべた。
その気配に金蝉は小さく笑うと悟空の身体を離し、目線を悟空と同じ高さにした。
そして、

「約束に私が入れたお茶を飲んでお帰りね」
「うん。嬉しい」

悟空は三蔵にさえ見せたことのない穏やかで幸せな笑顔を金蝉に向けて、頷いた。
そんな二人の様子を耶斗も幸せな笑顔を湛えて、見つめていた。




金蝉が柔らかな香りのお茶を入れて戻ってきた。

「はい、悟空」

悟空の両手を包み込むように渡された湯飲みには、綺麗なオレンジ色のお茶が入っていた。

「…ジャスミン……茶?」
「そう、私の好きなお茶だよ。悟空にも飲んでおいて欲しくて入れてきたのだよ」

湯気の向こうで金蝉の顔が穏やかにほころぶ。
悟空はふうっと、息を吹いてそっと口を付けた。
途端に広がるジャスミンの香りと甘い味に、悟空ははんなりとした笑顔を浮かべた。
そして、金蝉と耶斗が見つめる前でゆっくりとそのお茶を飲み干した。

「美味しかった…ありがと……金…蝉………」
「どういたしまして、悟空」

ゆっくりと倒れ込む悟空の身体を金蝉は抱き留めた。
腕の中の悟空は安らかな寝息を立てている。
金蝉は悟空の身体を抱き留めた時、一緒に受けとめた湯飲みを机に置くと、悟空を抱き上げた。
そして、傍らに立つ耶斗に頷きかけ、二人して耶斗の家を後にした。





















夕方、笙玄は使いの者が来たと門番の僧兵から連絡を受け、僧兵の詰め所のある中門傍の僧庵に姿を見せた。

「どちら様からの使いお方でしょうか?」

僧庵の入り口で問えば、僧兵の一人が待合所へ案内した。
通された待合所には、悟空より二つ三つ年上の少女が板作りのベンチに腰掛けていた。
僧兵が声をかけると、少女が振り向いた。
あの少年に面差しが似ていると、ふと、笙玄は思ったが、少女が立ち上がって礼をしたので、笙玄も慌てて礼を返した。

「あの、笙玄さんですか?」

少し戸惑うような少女の問いかけに、笙玄は穏やかな笑顔を浮かべて静かに頷いた。

「はい、私が笙玄ですが、私宛のお使いですか?」
「笙玄さんと三蔵さんにって、聞いてきました。でも、三蔵さんは身分の高い方で、お忙しいから会えないって言われました。でも、笙玄さんなら会えるってあのおじさんが言ってくれて、だから、待ってたんです」
「そうですか。三蔵様にもですか」
「はい」

笙玄の言葉に少女は頷く。
少女は利発そうな面差しを笙玄にまっすぐ向けて、笙玄の判断を待っているようだった。

「お使いの内容は、伝言ですか?お手紙でしょうか?」
「笙玄さんには伝言で、三蔵さんには手紙です」

そう言って、少女は懐から手紙を出して、笙玄に示した。

「私への伝言は、どんなモノでしょう?」

促されて、少女は話し出した。

「えっと、耶斗からで『ごめんなさい。本当にごめんなさい。そして、優しくして下さってありがとうございました』です」

聞かされた伝言に、笙玄は怪訝な顔をする。

「それだけですか?」
「はい。これだけです」
「そうですか…ありがとうございました」

腑に落ちない、よく理解できないという顔をしている笙玄に、少女は三蔵宛の手紙をどうしたらいいのかと訊ねた。

「あ、そうです。三蔵様宛のお手紙は私がお預かりして、必ずお渡し致します」
「…でも」
「私は、三蔵様のお側ご用を勤めていますので、大丈夫ですよ」

笙玄の諭すような声音に少女は少し考えた末、手紙を笙玄に渡した。

「必ず、三蔵さんに渡して下さいね」
「はい、必ず」

何度も何度も念を押しす少女に、笙玄は大丈夫だと何度も頷いた。
最後には、側に居た僧兵達も大丈夫だと言い出し、ようやく少女は納得したようだった。
帰り際、くれぐれも頼むとまた、念押しして、少女は帰って行った。
少女を見送りがてら、総門まで出てきた笙玄は、空が夕焼けに染まりつつあることに気が付いた。

もうすぐ、悟空が耶斗の家から・・・・・そこで、気が付いた。

耶斗の伝言は何と言った?
何と言ってきた?

笙玄は総門から走り出ると、今、見送ったはずの少女の姿を捜した。
だが、何処にも少女の姿はなく、青い顔で立ちつくす笙玄の長い影があるばかりだった。





















三仏神に呼び出された三蔵が、斜陽殿から戻ってきたのは、日も暮れた遅い時間だった。

三蔵の帰りを待ちわびていた子供のように笙玄が、寝所からまろび出てきた。
その慌てた様子と血の気のない顔色で、やはり何かあったことが知れた。

「落ち着け、笙玄」

揺るぎない三蔵の声にはっと、する笙玄を横目に、法衣を脱ぎ捨て、長椅子に腰を下ろした。
この時間ならまだ起きて、自分の帰りを待っているはずの小猿の姿が見えない。
やはり、アレは気のせいでは無かったらしい。
笙玄の狼狽えた様子が、事実だと告げている。
三蔵は小さく嘆息すると、笙玄に事のあらましを話すように促した。

「…で、その手紙は?」
「これでございます」

差し出された手紙は何の変哲もない白い封筒だった。
三蔵は無造作にそれを開けると、中から悟空の髪を結んでいた組紐と手紙が出てきた。

「そ、それは悟空の…」
「ああ、読んでみろ」

手紙に目を通した三蔵が、笙玄にその手紙を渡して読むように促した。
渡された手紙には一行、流麗な文字が綴られていた。

『大地の御子を我らに返して頂く』

と。

「三蔵様…悟空は、悟空は…」

かたかたと震え出す笙玄に、三蔵は大丈夫だと頷いてやり、茶をくれるように言った。
それに笙玄はぎくしゃくと頷くと、手紙を三蔵に返して厨に向かった。
その後ろ姿にため息を吐くと、三蔵は長椅子に深くもたれた。

「…悟空…」

呟きは空気に融ける。






斜陽殿に居る途中から、悟空を拾ってから、いや、その前から常に頭の胸の片隅から聴こえていた悟空の声が、途切れ始めた。
また、良からぬ事が悟空の身に起こったのかと心配したが、声に悲痛なことも悲しげなところも感じられなかった。



どうした……?



そう三蔵が思ったのを待っていたように、ふっつりと悟空の声が途絶えた。
三蔵は、三仏神の前だと言うことを一瞬忘れて、立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回した。

『三蔵、どうした?』

三蔵の様子に三仏神が怪訝な声音を上げた。

「い、いえ、何でもありません」

気のせいだと、そう告げて三蔵は再び額づいたのだった。






柔らかく聴こえていた声が聴こえない。
それがこれほどに己を不安に掻き立てるとは想いもしなかった三蔵だった。




1 << close >> 3