愛しき君へ (2)

痛みで目が覚めれば、そこは宿で。
傍らを見れば寝台にうつ伏せて悟空が眠っていた。
出逢った頃から変わらない幼い寝顔。
三蔵は微かに口元を綻ばせて目の前にある大地色の髪に手を伸ばした。

「生きて…無事でいてくれたんだな…」

想いは溢れてくる。

黄色い花の咲く花畑で笑っていた。
常春の桜の下、無邪気に遊んでいた。
退屈で、死さえも訪れることを拒む世界に落とされた黄金の宝石。

あの時、白い法衣を血に染めて、驚愕に身動きできない悟空の腕の中へ倒れ込んだ。
その行動の源はただ一つ。

悟空を守りたい。

常日頃思っていても口にも態度にも出したことがない三蔵の想い。
それが敵に斬りつけられる悟空の姿を見た途端、溢れ出た。

本当に溢れ出たのか?

この胸に溢れる程の愛しさと身に覚えのない記憶は自分のものか?

本当に?

夢の中の悟空が呼んでいた「金蝉」という人物と重なる色々な形。
視点、感情、痛み、記憶。

あれは何なのか。

知っているようで知らない。
それでも悟空へ溢れてくる想いは確かに己の胸にあって。
それは決して嫌悪を抱くモノでなく、もっと優しく温かなモノ。

三蔵は不思議な想いに満たされたまま、窓から見える明け方の空を見上げた。




空を見上げたままぼんやりとしていると、悟空が身じろぎ、目を開けた。

「さん…ぞ?」

眠そうに目を擦りながら身体を起こし、三蔵を見やった。
そして、三蔵の意識が戻っていることに気が付いた途端、顔をくしゃっと歪ませてしまった。

「何だ?」
「だって…目が覚めて、る…」
「死んでねぇよ、サル」
「うん、生きてる」

頷き笑う瞳から涙が耐えきれずこぼれ落ちた。

「喉、乾いた?何か飲む?」
「いや…いい」
「さんぞ?」
「何でもねぇよ」

小さく笑ってするりと悟空の頬を三蔵は撫でた。
その感触に悟空ははんなりとした笑顔を浮かべた。

「よかった…ホントに。俺、心配したんだかんな」
「わかってるよ」
「もう二度と、あんなことすんなよな。らしくねえじゃん」
「そうか?」
「そうだよ」

三蔵の意識が戻って嬉しいのか、悟空は常にない甘えた様子を三蔵に見せる。
その姿に、今まで幸せに、愛されてきたのだと、三蔵は思った。
五行山から連れ出して、今まで育ててきたのは自分であると解っているのに。
いつになく穏やかな表情を見せる三蔵の様子に、悟空は不思議そうな表情を浮かべた。

「どうか、した?」
「あぁ…いや、幸せでよかったな」
「な、何だよ急に…」
「お前はそうやっていつでも笑ってろよ」
「…ぇっ?!」

慈愛に満ちた表情のまま三蔵は静かな声で愛しそうにそう告げると、ゆっくりとその紫暗を閉じた。
まるで今から黄泉路へ旅立つ者のように。
ゆっくりと悟空の頬を撫でていた手も止まり、ぱたりと落ちた三蔵の手を悟空は呆然と見つめた。











引き戻される記憶。











閉ざされた扉が軋んで、亀裂が走る。











閃く銀の雨。
深紅く染まる白。
千切れ飛ぶ金。

名前を呼んで。
声もなく名前を呼んで。
でも、呼ぶはずの名前などわからなくて。

それでもその姿は確かに知っている人で。
その自分を呼ぶ声は大切な人の声で。
泣き濡れ、取りすがる幼い自分。
繊手が濡れた頬に触れ・・・・。

「        」

言われた言葉は耳に届く前に、大気に溶けて。
触れていた手が床に落ちた。











「うわあああぁぁぁ───っぁああぁ!」











血に染まったあの金色の人と目の前の青ざめた三蔵の姿が重なって。
悟空の喉から迸り出た悲鳴は明けたばかりの大地を揺らした。




















「なあ、何でこんなの付けてなくちゃいけないんだ?」

子供が差し出す腕に付けられた枷が無機質な音を立てる。
自分を見上げてくる金眼の視線の真っ直ぐさに瞳を逸らすことも出来ずに、金蝉は押し黙った。

「なあ、何で?俺が地上で生まれたから?俺が金目だから?なあ…金蝉」

執務机を周り、金蝉の傍らに立つと、金蝉の服を掴んで揺する。
金蝉は揺すられるまま、身体を揺らし、辛そうな瞳を悟空に向けた。

「金蝉?なあ、訊いちゃいけないことなのか?」

聡い子供は簡単に金蝉の心境を読んでしまい、まるで自分の方が悪いように俯く。

「こんなこと訊いたら金蝉、やだったんだね」

きゅっと金蝉の服を握った手に力を入れて、それでも笑おうと悟空は顔を上げた。
そして、眉根を寄せて辛そうな色をその紫暗に湛えた金蝉に泣きそうな笑顔を見せた。

「…ごめん、もう訊かない…」

そう言って、踵を返し、執務室を走り出ていってしまった。
ぱたんと扉の閉まる音で漸く金蝉は詰めていた息を吐き、力一杯机に拳を叩き付けた。

大地の精髄である仙岩から生まれた大地母神が愛し子。
天に斉しい力を持つ大地が分身。
その強大な力を封じるために額に金冠を嵌め、手足に枷を付けた。
天界に仇なす事のないように。
身近で見張るために。

そんなことをあの子に告げることが出来ようか。
出逢ってから知らされたこと、知らなかったこと。
天界の勢力争いに嫌も応もなくやがて巻き込まれてゆくのだと誰が言える。
ただ、今は素直に笑っていて欲しい。
だから、言えない。
告げることは出来ない。

「…慰めで告げられたら…」

俯いた視線の先に悟空が握りしめて出来た服のシワをみつけた。
悟空にも切実な願いがあるのだとそのシワが告げているようで、金蝉は非力な己を呪った。




















夜が明けたばかりの空を風が駆け抜けてゆく。
目覚めたばかりの梢が枝を揺らす。
川の水がざわめき、水を湛えたもの達の表面は激しく波打った。

子供達は不安げに空を見上げ、喉を鳴らした。





















「どうした、チビ」

回廊の隅で膝を抱えている子供を見つけた観世音菩薩が声を掛けた。
それに顔を上げた悟空は菩薩の姿を見つけるなり、その腰に抱きついた。

「観音の姉ちゃん」

ぎゅっと菩薩の腰にしがみついて悟空は、その細い肩を揺らした。

「なんだ?何かされたのか?」
「違うの…俺がしたの」

くぐもった返事に菩薩は柳眉を顰めた。

「お前が?何をやらかしたんだ?」

菩薩の問いかけに悟空は顔を菩薩の腰に押し付けたまま答えた。

「訊いちゃいけないこと金蝉に訊いて、金蝉を悲しませた…」
「訊いちゃいけないこと?何だそれは」
「枷のこと…何でしなくちゃいけないのかって…」

そこでがばっと顔を起こすと、悟空は叫んだ。

「そしたら金蝉、すっごい悲しい顔して…そんな顔見たくて訊いたんじゃないのに…ないのに…」

そのまま悟空は泣き出してしまった。
菩薩は小さく笑って泣きじゃくる悟空の頭を軽く掻き回した。

「……?」

泣き濡れた瞳で見上げれば菩薩が笑っていた。
訳が分からずにいると、

「それはなお前が金蝉と一緒に居るためのまじないなんだよ」

そう菩薩は告げた。

「一緒にいるための、まじない?」
「ああ、だからそれを外したらここに居られなくなっちまうんだよ」
「ホント?」
「ああ、この俺様が言うんだから間違いない」
「でも、金蝉…悲しそうだったよ?」

濡れた瞳で菩薩を見返す悟空の視線の真っ直ぐさに菩薩は内心、金蝉のその時の様子を想い浮かべていた。
生真面目な甥は悟空に嘘が告げられず、まして本当のことなど告げられるはずもなく、板挟みになってこの子供に気を遣わせたのだ。



青いねぇ…



菩薩は見上げてくる悟空の涙を拭い、もう一度その大地色の頭を掻き混ぜた。

「内緒事がばれそうで困ってたんだよ」
「内緒?」
「ああ、金蝉と俺だけのな。だからお前に知られたくなかったんだ。知られたら恥ずかしいんだってよ」
「何で?」
「金蝉もお前と一緒に居たいって思ってるからさ」
「ホント?」
「疑うのなら訊いてみろ。きっと、顔を真っ赤にして答えてくれるぞ」
「うん」

頷く悟空の顔は晴れやかな笑顔に彩られていた。
いずれ本当のことを知るだろうが、それまではこのまま。
悟空を取りまく者、全てのそれは願いだった。




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