愛しき君へ (3)

悟空の上げた声は、聞くものの魂に痛みを覚えるほどの哀切な色を帯びていた。
宿中に響き渡った声に、まんじりともせずにひと夜を明かした八戒と悟浄は飛び上がった。
当然、宿の宿泊客も宿の主人達も目を覚ます。
が、悟空の上げた声は一度だけで、浅い眠りの中で聞いた声はすぐに夢の中の出来事、気のせいとして人々の中で処理されたようで、悟空と三蔵が居る部屋に駆け込んだのは、悟浄と八戒だけだった。

その二人が見たのは、滂沱と涙を流して三蔵の眠る寝台の傍らに座り込んでいる悟空と意識のない青ざめた三蔵の姿だった。

「一体何が…」

抜け殻のようになった悟空の様子に八戒と悟浄はお互いに顔を見合わせ、眉を顰めた。
二人は悟空と三蔵の元へ近づき、それぞれの名前を呼んだ。
だが、意識のない三蔵からの返事は当然なく、悟空は身動きすらしなかった。
取りあえず悟浄は悟空を抱え上げて隣の寝台へ座らせ、その間に八戒は意識のない三蔵の様子を窺った。

「どうなっちまったんだ?」

悟空を座らせた悟浄が八戒を振り返った。
と、三蔵の傷を診ている八戒のただならぬ様子に悟浄は声をかけた。

「八戒?」

くつろげた三蔵の胸元を見つめたまま八戒は動かない。

「八戒!」

強くもう一度呼べば、八戒の肩がびくっと大きく竦み上がった。

「何だよ?」
「ぇ、え…あ、あぁ…こんなことって…」
「あ?」

信じられないと首を振る八戒に小首を傾げながら悟浄はその手元を覗き込み、息を呑んだ。

「なっ…んだ…よ、これ…」

八戒によって開かれた三蔵の胸元には、今、刃物で斬りつけられたような傷が縦横に走っていた。
傷は浅いモノばかりだったが、その数は信じられないほどあった。
妖怪の襲撃を受けた一昨日の昼から以降、宿に着くまで、宿に着いてからも何者とも、誰とも戦っていない。
敵が襲ってくれば八戒や悟浄に解らないはずもなく、三蔵がケガをするのを悟空が黙って見ているはずもない。
その上、三蔵は妖怪と戦ったあの昼、ケガを負って以来、意識がない。
悟空だって付きっきり…。

そこまで考えて漸く、八戒は悟空の上げた叫び声を思い出した。



そうだ、あの時何かがあったのだ。
悟空があの魂に直接響くような叫び声を上げたあの時。



「わかりません。でも、悟空が上げた叫び声、あの時、三蔵の身に何かあったんです」
「あの時にか?」
「ええ、きっと、悟空が知っているはず」
「サルが、ねえ…」

二人一緒に振り返れば、座っていたはずの悟空は小さく身体を丸めて、まるで胎児が眠るような姿で寝台の上で眠っていた。
その姿に八戒と悟浄は顔を見合わせたが、すぐに頷き合った。

「傷を治します。その間に悟空を起こして、事情を聞き出してください」
「わかった」

八戒は三蔵の無数に刻まれた傷の手当てを、悟浄は悟空を起こしにかかった。




















「今日からここでお前は俺と暮らすんだ」

そう言って金蝉と名乗った人物が悟空を連れて行ったのは観世音菩薩の住む城とは対を成す城だった。
金蝉、すなわち金蝉童子は観世音菩薩の甥で高位に位置する神だったが、天界軍や天界の中央とはほど遠い閑職についていた。
そんなことが悟空に解るはずもなく、ただ、その城の大きさと美しさにあっけにとられていた。

「ここがお前と俺の部屋だ。寝る時は布団を床に敷いてやるからそこで寝ろ」
「うん…」
「で、こっちの部屋は書斎兼執務室。仕事をしている時は騒ぐな。大人しくしていろ。いいな」
「うん」
「なら、食事まで好きなコトしていろ」

そう言って金蝉は部屋の正面にある大きな机に座った。
そして、積まれた書類を手に取ったのだった。




悟空がうろうろと部屋の中を物色し始めた。



寺に連れて来た時も寝所を物色してやがったな。何が、珍しいんだか…



呆れた想いで悟空の様子を書類を読むフリをして窺う。
今とはずいぶんと幼い。
いや、出逢った時より幼い。
そんな悟空の姿に小さく口元を三蔵は綻ばせた。

そして、視線を投げた。
首、両手足で揺れる鎖と鈍い色を放つ枷に。

そう言えば悟空を引き取る前、恵岸と菩薩が言っていた。

「小さいくせに獰猛な黄金の目をした動物」

と。
だが、今、部屋の中を物珍しげに見て回る子供のあどけない様子と仕草、人なつっこい様子の何処にそんな荒くれたものが隠れているというのだろうか。

いや、コイツは額の金鈷が外れたら殺戮に喜びを感じるほどのあやかしに変わる。

変わる?
誰が?
この子供が?

寺院へ連れて来て暫く立って暴発した悟空の本来の姿に三蔵は、自分が恐怖を感じたことを思い出す。
あの時、悟空は置いていくなと泣いた。
失った記憶の片隅に残っていた欠片がそう言わしめたのかもしれないが。

寺院?
どこの?
この子供は寺院に居たのか?



何だ、今のは…



金蝉は身に覚えのない記憶にその紫暗を見開いたのだった。




















何度か身体を揺すれば、悟空は赤ん坊がむずかるような仕草を見せ、やがて、小さく身じろいで目を覚ました。

「悟空」
「……んっ…」

寝起きのはっきりしない様子で悟浄を見返した悟空は、酷く幼い顔付きをしていた。
そんな何処か覚束ない悟空に悟浄は眉を顰めたが、傷だらけの三蔵の様子を思い出してもう一度悟空の肩を揺すった。

「おい、悟空、何があった?」
「何って、何が?」

真剣な顔で問いかけてくる悟浄に悟空はきょとんとした顔をする。

「何がって、そりゃこっちの台詞。何で三蔵がまた、ケガしてるんだよ」
「三蔵がケガ?」
「ああ、一昨日よりケガが増えてるんだよ。お前、傍にいて何も気付かなかったのか?」
「うそ…何で?」
「悟空?」

悟浄の言葉に悟空は信じられないと首を振り、それが嘘だと確認するようにゆっくりと首を回し、隣の寝台で眠る三蔵の姿を見た悟空の金眼が見開かれた。

「あ…やっ…三蔵!」

言うなり、悟空は弾かれたように三蔵へ取りすがろうと身を翻した。
それを悟浄は反射的に止めていた。
後ろから羽交い締めにして、悟空を三蔵へ近づけないように押さえ込む。

「三蔵!三蔵!!」
「落ち着け、サル!」

三蔵の元へ行こうと悟空が暴れる。
幼子が親を求めるように悟空は叫ぶ。

「やだ!三蔵が…三蔵がぁ…」
「大丈夫だから!八戒が手当してるから!」
「悟浄ぉぉ…」

振り返った悟空の瞳は濡れて、怯えた色を刷いていた。
悟浄はそれに小さく舌打ち、悟空の身体を寝台に抱え上げ、己の身体の下に組み敷いた。

「大丈夫だから落ち着け」
「でも…でも…」

悟空の濡れた瞳から涙が溢れた。

「三蔵はあれくらいで死なねぇから」
「ち、血だらけ…じゃんかぁ」
「血だらけなんかじゃねえよ。浅い傷が多いからそう見えるだけだって」

悟浄の言葉に悟空の涙が一瞬とまる。

「ホント?」
「ああ、悟空、大したことないから安心しな」
「ホ、ホントに?」
「大丈夫だって、な、八戒」

なかなか自分の言葉を信じない悟空のために悟浄は三蔵の傷の手当てをしている八戒に同意を求めた。
治療の手を止めて八戒は振り返り、縋る瞳で見返す悟空に大きく肯いた。

「はい、大丈夫ですよ。すぐ治るほどの傷ですから」

そう言って八戒が笑顔を浮かべる。
それに悟浄は小さく息を吐いて、組み敷いた悟空に視線を戻した。

「だってよ、わかったか?」
「う、うん…」
「─ったくぅ…」

漸く大人しくなった悟空の上から悟浄はどくと、疲れた仕草で髪を掻き上げた。

「で、何があって、三蔵はあんな傷を負ったんだ?」

煙草をくわえながらもう一度、悟浄が訊くと、悟空は寝台に寝転がったまま答えた。

「…何も…なかった」
「おい!」

悟空の答えに悟浄が気色ばむ。
それを八戒が視線で制する。

「ホントに、何にもなかったんだ。目を覚ました三蔵と話をしてて…そしたら急に三蔵の手がぱたんって落ちて…俺…」

あの時、一瞬にして目の前が真っ赤に染まった。
そして見たのだ。
金色を頂く真っ白な人が深紅く染まるのを。
その姿が三蔵と重なった。
それだけで、世界が消えた気がしたのだ。

三蔵を失ったのだと。

そんなことがあるはずがないのに、確かにそう思ったのだ。
この胸に残る恐怖はちゃんと胸に影を落としている。
自分で自分を抱き締めるように身体に腕を回し、悟空は蹲った。

悟空の話を聞いた八戒が悟空を宥めるように、丸くなった悟空の背中を撫でた。

「急に三蔵が意識を失ったので、びっくりしたんですね」
「そ…かな…」
「ええ、悟空にとって三蔵は大事な人ですからね」
「うん…」

八戒の言葉に悟空は俯いたまま頷いたが、その悟空の戸惑ったようなしょげた様子に八戒と悟浄は顔を見合わせ、小さくため息を零したのだった。




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