愛しき君へ (3) |
悟空の上げた声は、聞くものの魂に痛みを覚えるほどの哀切な色を帯びていた。 宿中に響き渡った声に、まんじりともせずにひと夜を明かした八戒と悟浄は飛び上がった。 当然、宿の宿泊客も宿の主人達も目を覚ます。 が、悟空の上げた声は一度だけで、浅い眠りの中で聞いた声はすぐに夢の中の出来事、気のせいとして人々の中で処理されたようで、悟空と三蔵が居る部屋に駆け込んだのは、悟浄と八戒だけだった。 その二人が見たのは、滂沱と涙を流して三蔵の眠る寝台の傍らに座り込んでいる悟空と意識のない青ざめた三蔵の姿だった。 「一体何が…」 抜け殻のようになった悟空の様子に八戒と悟浄はお互いに顔を見合わせ、眉を顰めた。 「どうなっちまったんだ?」 悟空を座らせた悟浄が八戒を振り返った。 「八戒?」 くつろげた三蔵の胸元を見つめたまま八戒は動かない。 「八戒!」 強くもう一度呼べば、八戒の肩がびくっと大きく竦み上がった。 「何だよ?」 信じられないと首を振る八戒に小首を傾げながら悟浄はその手元を覗き込み、息を呑んだ。 「なっ…んだ…よ、これ…」 八戒によって開かれた三蔵の胸元には、今、刃物で斬りつけられたような傷が縦横に走っていた。 そこまで考えて漸く、八戒は悟空の上げた叫び声を思い出した。
そうだ、あの時何かがあったのだ。
「わかりません。でも、悟空が上げた叫び声、あの時、三蔵の身に何かあったんです」 二人一緒に振り返れば、座っていたはずの悟空は小さく身体を丸めて、まるで胎児が眠るような姿で寝台の上で眠っていた。 「傷を治します。その間に悟空を起こして、事情を聞き出してください」 八戒は三蔵の無数に刻まれた傷の手当てを、悟浄は悟空を起こしにかかった。
「今日からここでお前は俺と暮らすんだ」 そう言って金蝉と名乗った人物が悟空を連れて行ったのは観世音菩薩の住む城とは対を成す城だった。 「ここがお前と俺の部屋だ。寝る時は布団を床に敷いてやるからそこで寝ろ」 そう言って金蝉は部屋の正面にある大きな机に座った。
悟空がうろうろと部屋の中を物色し始めた。
寺に連れて来た時も寝所を物色してやがったな。何が、珍しいんだか…
呆れた想いで悟空の様子を書類を読むフリをして窺う。 そして、視線を投げた。 そう言えば悟空を引き取る前、恵岸と菩薩が言っていた。 「小さいくせに獰猛な黄金の目をした動物」 と。 いや、コイツは額の金鈷が外れたら殺戮に喜びを感じるほどのあやかしに変わる。 変わる? 寺院へ連れて来て暫く立って暴発した悟空の本来の姿に三蔵は、自分が恐怖を感じたことを思い出す。 寺院?
何だ、今のは…
金蝉は身に覚えのない記憶にその紫暗を見開いたのだった。
何度か身体を揺すれば、悟空は赤ん坊がむずかるような仕草を見せ、やがて、小さく身じろいで目を覚ました。 「悟空」 寝起きのはっきりしない様子で悟浄を見返した悟空は、酷く幼い顔付きをしていた。 「おい、悟空、何があった?」 真剣な顔で問いかけてくる悟浄に悟空はきょとんとした顔をする。 「何がって、そりゃこっちの台詞。何で三蔵がまた、ケガしてるんだよ」 悟浄の言葉に悟空は信じられないと首を振り、それが嘘だと確認するようにゆっくりと首を回し、隣の寝台で眠る三蔵の姿を見た悟空の金眼が見開かれた。 「あ…やっ…三蔵!」 言うなり、悟空は弾かれたように三蔵へ取りすがろうと身を翻した。 「三蔵!三蔵!!」 三蔵の元へ行こうと悟空が暴れる。 「やだ!三蔵が…三蔵がぁ…」 振り返った悟空の瞳は濡れて、怯えた色を刷いていた。 「大丈夫だから落ち着け」 悟空の濡れた瞳から涙が溢れた。 「三蔵はあれくらいで死なねぇから」 悟浄の言葉に悟空の涙が一瞬とまる。 「ホント?」 なかなか自分の言葉を信じない悟空のために悟浄は三蔵の傷の手当てをしている八戒に同意を求めた。 「はい、大丈夫ですよ。すぐ治るほどの傷ですから」 そう言って八戒が笑顔を浮かべる。 「だってよ、わかったか?」 漸く大人しくなった悟空の上から悟浄はどくと、疲れた仕草で髪を掻き上げた。 「で、何があって、三蔵はあんな傷を負ったんだ?」 煙草をくわえながらもう一度、悟浄が訊くと、悟空は寝台に寝転がったまま答えた。 「…何も…なかった」 悟空の答えに悟浄が気色ばむ。 「ホントに、何にもなかったんだ。目を覚ました三蔵と話をしてて…そしたら急に三蔵の手がぱたんって落ちて…俺…」 あの時、一瞬にして目の前が真っ赤に染まった。 三蔵を失ったのだと。 そんなことがあるはずがないのに、確かにそう思ったのだ。 悟空の話を聞いた八戒が悟空を宥めるように、丸くなった悟空の背中を撫でた。 「急に三蔵が意識を失ったので、びっくりしたんですね」 八戒の言葉に悟空は俯いたまま頷いたが、その悟空の戸惑ったようなしょげた様子に八戒と悟浄は顔を見合わせ、小さくため息を零したのだった。
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