愛しき君へ (6)

「三蔵の色みたいな花畑だから…って思ってさ」

はにかむように、嬉しそうに告げられた。

「…相変わらずだな…」
「いいじゃん、ホントにそう思うんだから」
「言ってろ」

そう答えながら三蔵は、薄紫に煙る花畑へもう一度視線を戻した。

どこまでも広がる紫の絨毯。
甘い薫りの柔らかな風と手を握る掌。



これは…なんだ?

今、感じているこれは、何だ?
ここは何処だ?



重なる感覚に三蔵は、戸惑う。
今、目の前に広がる景色も手に触れる温もりも現実としてあるというのに。
感じる違和感。
自分の内で目覚める気配。
その気配に呑み込まれて、それでも感覚は失わずに、現実としての実感。

長い眠りから覚めたような、夢を見ていたような朧な覚醒。
意識を取り込んで、抱き込みながら覚醒する意識。
それと共に蘇る感覚と現実であるという実感。

自分は先程まで微睡んでいたはず。
大きくなった愛し子の今ある状態を夢見て安心していた。
綺麗な輝く笑顔と明るい声音、逞しくなった様子が嬉しくて。



……お前は本当に愛されて来たんだな



傍らで手を握っている悟空は夢と同じに少し成長していて。
背中に揺れていた長い髪も短くて。
変わらずに儚さを纏ってはいたが、その姿は力強く、逞しさを感じて。
守られていただけではなく、様々な経験を積んだものの強さを宿していた。
その姿を間近で見て、眩しさを覚え、例え一時でも一緒にいられる嬉しさを抱く。

「なあ…三蔵、なんかあった?」

暫くして、小さな声で悟空が訊いてきた。
意識が戻ってからの三蔵の変化に、どこか違う三蔵に戸惑った気持ちを抱いて。

「…何だ?」

悟空の問いかけに金蝉は、思わず息を詰めた。
そっと、盗み見れば、悟空は困った顔を金蝉に向けている。

「ん…なんか、いつもと違うから…さ」
「違う?」

悟空の言葉に金蝉の心臓は撥ねた。
それを見せることなく悟空を振り返った金蝉は、悟空の困惑した瞳と出逢った。

「…三蔵のようで、三蔵じゃないっていうか…何となく…」
「何だ?それは」
「よくわかんねぇけど、そんな気がする」
「人語しゃべれよ」
「ひでぇ…」

三蔵の普段と変わらない声音で返事をしながら金蝉は自分が今、「三蔵」と悟空が呼ぶ人間と同化していることに漸く納得する。
完全に入れ替わった訳ではないらしく、この身体の持ち主の記憶もちゃんと自分は持っているのだ。
その上、自分は天界の記憶と自分が死んだ時の記憶まで持ってここにいる。
この悟空が「三蔵」と呼び、誰よりも慕っている人間の中に。

「俺は俺だ。何も変わってねぇよ」
「うん…変わってない気がするんだけど…でも…」
「でも?」
「何か懐かしく感じるんだ。三蔵と長いこと離れてた訳でもないのに…そんで、三蔵が丸くなったっていうか、もっと優しくなった気がしてさ…」

照れた笑顔を金蝉に向けて、悟空はぽりぽりと頬を掻いた。
その様子に悟空をこのまま誤魔化し通すことは出来ないと金蝉は感じていた。
誰よりもこの「三蔵」の変化に聡く、敏感な子供だと解っているから。
だが、今の状態を知られるわけにはいかない。
自分があの岩牢へ繋がれる前の悟空を知っている、その時自分が悟空の保護者だったということなど。
そして何より、この自分が「三蔵」ではないことを悟空に知られてはならない気がした。



現時点での自分の存在は悟空を悲しませる。



何故かそう思った。

あの小さな悟空があれほどに慕い、信頼を寄せていた自分という存在。
血の海に沈む己の姿に泣き叫んでいた痛々しい姿。
そして、暴走する力に翻弄され、血の海を歩く幼い影。
大人達の馬鹿げた争いに巻き込まれ、岩牢に繋がれた哀しい姿。
守れなかった大切な子供。

三蔵と重なり、息づく己が求める子供は、「三蔵」という人間の大切な宝。
誰にも渡せないと、「三蔵」が誓う宝石。

記憶を失うという温情で精神を繋ぎ止め、下界に戻されたお前。
最後に見た泣き濡れた顔を忘れるほどの幸せな笑顔を見せるお前。
そんなお前に、辛い思いをまたさせるわけにはいかない。
何より今の悟空に自分の記憶も、天界での記憶も欠片も残ってはいないのだから。

「…なんでかな、三蔵」
「俺に訊くな」
「へへ…そだね」

困ったような笑顔を金蝉に向けて、悟空は頷いた。
その笑顔に金蝉は胸が痛む。
だが、それでも素知らぬふりで、「三蔵」としての演技を金蝉は続けなくてはならなかった。
悟空のために、悟空を悲しませないために。

「あ、立ってて大丈夫か?座らなくても平気か?」

ふと、思い出したように悟空が慌てたように金蝉の様子を窺う。
それに金蝉はゆっくり首を振ると、悟空の頭に触れた。

「さんぞ?」

ちょっと首を竦め、上目遣いに顔色を窺う悟空に、金蝉は小さく笑みを浮かべ、

「大丈夫だよ、サル」

そう言って、ぐしゃぐしゃと掻き回した。

「もうっ、サルじゃねえって」

掻き回す金蝉の手から逃れるように一歩下がり、悟空は拗ねた素振りで、頬を膨らませた。
その幼い仕草に、金蝉は喉を鳴らして笑うと、踵を返した。

「戻るぞ」
「ぇ…?」

薄紫の花畑を渡る風が僅かに日の暮れの訪れを纏って吹きすぎた。
三蔵の上着が翻る。
悟空が問い返した声は夕風に紛れた。




















「金蝉の花畑みたいだろ」

それは嬉しそうに見上げてくる悟空の姿に、金蝉は花畑に視線を向けたまま答えた。

「お前の花畑じゃねえか」
「え?」
「お前の瞳と同じ色だろうが」

ふいっと、視線をもっと逸らして、金蝉はそう告げた。
見上げる金蝉の耳が赤い。
それに気付いた悟空は握った金蝉の腕に抱きついた。

「金蝉!」

ふいに加わった重みに金蝉はよろめきかけたが、悟空の喜びように瞳を眇めた。

どうか幸せに。
どうか綺麗なままで─────




















黄昏時、夕焼けが空を染めてくる。
その空を時折見上げながら、金蝉と悟空は宿へ戻る道を辿っていた。

穏やかな時間。
遠い昔、こんな風に下界を悟空と在ることを思い描いたことを思い出す。
叶わぬ想いと諦めていた。
それが、こんな風に偶然に叶って、金蝉は自然に顔がほころぶのだった。
金蝉が笑った気配に悟空が金蝉を振り返った。

「何笑ってるのさ」
「いや…」

ごほんと、咳払いをして誤魔化す金蝉に悟空は小首を傾げて頭一つ分高い金蝉の顔を見上げた。
心なしほんのりと頬が赤く染まっているような気がして、悟空の口元が緩やかに綻ぶ。
穏やかな三蔵の纏う空気に、悟空は三蔵が目覚めてから抱いていた想いが間違っていなと、何故か確信した。
目の前にいるのは三蔵であるはずなのに、懐かしくて、温かくて、遠い日に失った大切な誰かであると。
口には出来ないけれど。
名前など覚えていないのだけれど。
悟空はくすぐったいような想いに満たされていた。

「お前は嬉しそうだな」

悟空の楽しそうな様子に金蝉が悟空の顔を覗き込んだ。
それに悟空は瞬時に顔を朱に染めて固まってしまう。

「バーカ」

金蝉はそんな悟空の様子に呆れたような笑みを浮かべ、軽く悟空の額を弾いて先へ行く。
その後ろ姿を見送っていた悟空は、はっと我に返ると後を追った。






夕暮れの穏やかな時間は瞬く間に過ぎ、やがて牙を剥く。






公園をあと少しで抜けるその間際、ふと悟空の足が止まった。
それに金蝉が怪訝な表情を見せる。

「どうした?」
「…ん、ちょっと」

悟空の纏う気配が緊張してゆく。
それに合わせて金蝉も周囲に気を配り、警戒した。

「三蔵、来るよ」

何がと、問う前に黒い影が二人めがけて降ってきた。
反射的に飛びすさり、辛うじて避ける。
振り返った先には得物を携えた妖怪が立っていた。

「見つけたぞ、玄奘三蔵」
「経文を渡してもらおう」

わらわらとあっという間に周囲を妖怪に囲まれてしまう。
金蝉は懐へ手を入れ、いつも「三蔵」が持ち歩いている銃がないことに気が付いた。
思わず漏れる小さな舌打ちに、悟空は三蔵が得物を宿に置いてきたことを理解する。

「三蔵、下がってて」
「…悟空」
「大丈夫だから」

言うなり、悟空は目の前の敵に向かって突っ込んで行った。

それを合図に始まった戦闘は圧倒的な悟空の勝利で収まるはずだった。
だが、最後の一人が事切れる前に放った刃は金蝉の背中を狙って。
気付くのが僅かに遅れた金蝉が避けきれるはずもなく、思わず蹲った身体に重みが重なった。

大量の妖気に慌てて駆けつけた八戒と悟浄が見たのは、蹲る三蔵とその身体を庇うように投げ出された悟空の姿だった。




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