君にこの聲が届きますように (4)

その日は朝から何かが違っていた。
ざわざわとした雰囲気が、悟空のいる庭を包んでいた。

いつもならもうニィが、助手を連れて現れる頃なのにまだ来なかった。
代わりに、悟空の周囲を囲む植物たちが、何かあったらしいと伝えてくる。
悟空はそろりと、サンルームから出た。
庭に生い茂る植物たちが、悟空を誘った。
悟空は小首を傾げ、それでも植物たちに誘われるまま庭をいつもとは逆の方向へ歩いて行く。

「……な、に?」

やがて庭の終わり、庭をドーム状に囲む壁に行き着いた。
すると、目の前のアキニレ枝が悟空の身体を巻き込んで上へ運んで行く。

「…ぁ」

そこに植物たちが暴走した時に出来た穴が空いていた。
そこから悟空は植物たちの手で外に出された。

「……大丈夫な、の?」

地面に下ろされてするりと自分の身体から離れるアキニレの枝に触れれば、大丈夫だから安心しろと、応えが返る。

「…ありがと」

悟空はぎゅっと枝を握ると、走り出した。
走りながら何度も振り返る。
やがて、森の暗がりに溶け込むように悟空の姿は消えた。
空はどんよりと重くたれ込め、今にも泣きそうに曇っていた。




「今日は待たせたね、悟空」

いつもよりもずいぶんと遅い時間になってしまったと、ニィが悟空を迎えに来たが、悟空のベットが置いてあるサンルームに悟空の姿はなく、鬱蒼と繁った植物たちがざわざわと揺れているばかりだった。

「悟空、どこに隠れているんだい?出ておいで」

呼べば小さな身体を怯えに竦ませて、悟空の姿を隠そうとする植物たちを宥めるように姿を見せるはずだった。

一度、何度呼んでも悟空が姿を見せなかったことがあった。
その時、業を煮やしたニィが植物を焼き払おうとした。
それに恐れをなした悟空はそれ以来、素直に呼べば出て来ていた。
が、今日は何度呼んでも悟空は姿を見せない。

「悟空、もう一度名前を呼んだら出てくるんだよ。でないと君のお友だちを焼き払っちゃうよ」

それでも、悟空は姿を見せなかった。

「悟空」

ニィの瞳が剣呑な光を宿した。

「お前達が隠しても無駄だと言っただろう」

ぽうっと、ニィの差し出した手のひらに炎が灯る。

「悟空を出しなさい」

植物たちは沈黙を守る。

「さあ」

ざわりと植物たちは一度、ざわめいた後、何も反応しなくなった。

「なら、焼き払ってから、悟空を捜せばいいか」

ニィの手のひらに灯った炎が爆発的に燃えだし、ニィが手を振ると炎は次々と庭を埋め尽くす植物たちに燃え移り、あっという間に庭は炎に包まれたのだった。
炎が消えた庭に、居るはずの悟空の姿は見つからなかった。
代わりに天井部分に空いた穴から、雨の匂いを多分に含んだ風が吹き込んでいるだけだった。

「逃たね、悟空。ボクから逃げられるなんて思わないことだよ。すぐに向かえに行ってあげるから、待っているんだよ」

そう言って、忌々しそうにニィは、まだ、燻っている植物の残骸を踏みにじるのだった。









   ◇◇◇◇◇









悟空が三蔵に拾われてひと月が経とうとしていた。

その間にお互いがお互いのことに関して知り得たことは、ほんの僅かであった。
例えば、それは三蔵が人外の存在だということと悟空が人と人外の存在とのハーフだということ。
それは、三蔵が独り暮らしだということと悟空が人の何倍も食べるということ。
たわいもないことで、極ありきたりなこと。
それは、悟空を酷く安心させた。

そして、何より自分の大好きだった金蝉が、三蔵の実の兄だったということ。

これは悟空を酷く驚かせたが、何年も行方を捜していたという三蔵の話に、悟空は申し訳ないながらも自分は一人ではないとわかって、とても嬉しいと思った。
金蝉の居場所を三蔵は知りたがったが、あの日、黒ずくめの男達に襲われ、金蝉の身体が血に染まったのを見た以降、一度も、悟空も金蝉に逢うことがなかった。
だから、悟空も金蝉が今、生きているのか、死んでいるのか何も知らなかった。

そして、悟空が居た場所。
ごく幼い頃に連れてこられ、散々嬲られた場所。
怖い、痛い、哀しい…そんな負の感情しか覚えていない場所。
思い出してもただ、ただ恐いばかりで。
最初、三蔵は悟空が落ち着いた頃を見計らって、覚えていることを話すように何度か促してくれた。
だが、時間が空いても、あの場所を思い出せば、恐怖が先に立って何も話すことが出来なかった。

そして、思い出してしまった。
そこで何を自分がさせられていたのか。
何をしてきたのか。

大切な友達を使った暗殺。

クスリを打たれ、精神を支配された状態で行った殺人。
それは数え切れなくて。
金蝉の大切な子供だと、大切にしてくれる三蔵に知られたくなかった。
あの姿も心も綺麗な三蔵に人の血で汚れた自分を知って欲しくなかった。

知られたらきっと嫌われてしまう。この居心地の良い場所から追い出されてしまう。
三蔵の傍に居られなくなる。

だから、よく覚えていないと、口を噤んだ。
そんな悟空に三蔵は金蝉とよく似た穏やかな笑顔で頷き、話せるようになったらでいいと問い詰めることはしなかった。



三蔵との暮らしは何事もなく穏やかに過ぎていく。



三蔵の住む家は古い洋館だった。

二階に三蔵の部屋と悟空の部屋と客間。
廊下の突き当たりは書庫になっており、そこから屋根裏部屋に続く階段があった。

一階にリビング、台所とダイニング。
洗面所に風呂と悟空のお気に入りのサンルームがあった。
そして、台所の奥から半地下の倉庫へ下りられるようになっていた。

家の階段、各部屋、台所、ダイニング、風呂、トイレ、どこにでも様々な観葉植物や花の鉢植えが置かれていた。

庭は洋館をぐるりと囲むようにあり、雑多に、けれどちゃんと手入れされた、たくさんの草や花、木々が植えられていた。
種類の多さに悟空がびっくりすれば、三蔵は困ったような顔をして、

「花屋に行くと、うるせぇんだよ。連れて帰れと。で、あんまりうるせぇから、つい持って帰ってきちまうんだよ」

そう言っていた。

悟空は思う。
植物たちの聲が聴こえるから、連れて帰れと煩いからって、普通は連れて帰ってなど来ないだろう。
それを「つい」の一言で連れて帰ってくる三蔵は、優しいのだ。
その本質を植物たちは気付くから三蔵に連れて行ってと強請るのだろう。
それが、悟空には何だか嬉しかった。

悟空は、寒い中をよく庭にいた。
三蔵の育てている草花や木々は皆、温かく優しい言葉を悟空にくれた。
部屋の中に置かれている鉢植え達も悟空に優しかった。
冷たい風に頬を撫でられながらそんな植物たちと話をし、暖かなサンルームでクッションに埋もれて過ごしたりした。

三蔵は翻訳の仕事をしているとかで、家事をしたり、庭の手入れや水まき以外は自室に閉じこもって仕事をしている時が多かった。
だから、三蔵にいつも相手をしてもらえるわけでもないし、未だにどこか遠慮し、どこか怯えて竦んだ悟空には今の状況は有り難かった。



「悟空…」

庭で小さな花を咲かせたナズナを見つめていた悟空は三蔵の呼ぶ声に立ち上がった。

「そこか。ちょっとこっちへ来てくれ」

そう言って三蔵はリビングの窓から悟空を手招きした。
悟空は頷いて、三蔵の傍へ駆け寄った。

「…あの…何?」

おずおずと尋ねる悟空の目の前にスコップと籠に入ったプリムラが差し出された。

「さんぞ?!」
「安かったのと、連れて行けと煩いから買ってきた。どこでも良いから植えてやっといてくれ」

そう言って、悟空に渡すと、

「仕事の残りを片付けねえとヤバイから、すまんが後は頼む」
「ぇ…あっ」

悟空の返事を待たず、三蔵はすたすたと二階の自室へ行ってしまった。
その背中を何とも言えない表情で見送った悟空は色とりどりの花を咲かせたプリムラに「こんにちは」と話しかけた。
途端、かしましい聲が聴こえだす。

「わかった…わかったから」

賑やかなプリムラのおしゃべりに笑いながら悟空は、日当たりの良い場所を選んでプリムラを植えるために土を掘り出した。

それが合図と何も知らず。
何も気付かずに。




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