君にこの聲が届きますように (5)

「見つけてくれたね、ボクの可愛いプリムラちゃん」

ニィは、手元で微かに花弁を揺らすプリムラの黄色い花に嬉しそうに触れた。

「逃がさないよ、可愛いボクの悟空」

くすくすとニィは笑うと、傍らに黙って佇む助手の女に頷いて見せた。
女は無表情で頷き返すと、踵を返した。

「あ、待って。僕も行くって伝えといて」
「了解しました」

女は背中を向けたまま頷くと、ニィをその場に残し去って行った。



本当にまさか、逃げ出すとは思いもしなかった…



人外の存在が世界から消息を絶って、三桁の時間が流れていた。

静かに人に紛れ、或いは辺境へその存在を移し、隠して人外の存在〈妖〉は生きてきた。
今、悟空を狩り出そうとしているニィも純粋な〈妖〉の一族の純粋な末裔だった。

金蝉をとある街で見かけた時、魂が震えるほどの歓喜に出逢った。

両親と死に別れてからずっと、自分と同じ〈妖〉の一族と出逢うことはなかった。
だから「世界に自分一人しかいない」そう思って生きてきた。
それが、そんな自分がようやく同じ血を持つ同族と逢った。

その奇跡。
その偶然。

だが、出逢った金蝉の手には金眼の子供が抱かれ、その傍らには人の妻の姿があった。

そう、ひっそりとその存在を隠すように人に紛れ、金蝉は人間の妻とハーフの子供と暮らしていたのだ。
その時、既にニィは組織の研究所を任されるほどの幹部となって、頭の先まで世界の闇に染まっていた。
金蝉に出逢った時、魂が震えるほどの歓喜と一緒に奈落へ落ちる絶望をも感じた。
金蝉の腕に抱かれた子供と傍らの妻の存在に。

人に交じらなければその存在が維持できない〈妖〉。
生まれ持った力は強大でも、種として世界に独り立ちが出来ない〈妖〉

理解はしていても誇りがそれを是とはしない。
個々種々それぞれに考え方も生き方もある。
だからとやかく言う筋合いはない。
きちんと理解も納得もしていた。

だが、ニィには納得できないことだった。
そんなニィの生き方と正反対にゆるりと時の流れに逆らうことなく身を任せ、静かに生きる金蝉に憎しみが湧いた。
そして、金蝉の生き方の証の子供。
引き裂いてやりたいと思った。

ちょうど、組織では〈妖〉を使ったプロジェクトが進行していた。
提案者は自分。
後は被検体となる〈妖〉を手に入れるだけだった。
そして、その白羽の矢が金蝉に立った。
周到に用意を進め、気付かれないように周囲を固め、あの日を迎えた。




金蝉の家を急襲した時、彼の妻を一番に殺した。
次ぎに子供をと思ったが、子供は遊びに出ていていなかった。
金蝉は銃を構える男達に囲まれて、ニィを無言で睨んでいた。

「一緒に来てちょうだいね」
「断る」

間髪入れない返事に、ニィの顔から表情が消える。

「では、大事な息子さんの命がどうなっても?」
「お前は俺が頷いても悟空を救う気はない。それにこれは親のエゴだが、半妖の子供を一人残しても行く先は知れている。ならばあの世とやらで妻と子と共に居た方がいい」
「いいえ、あなたはボクの大事な玩具になるんだよ」
「何だ…と?」

ニィの言葉に腰を浮かした金蝉の耳に、元気な子供の声が聞こえた。

「ただいまあ」




あの時点で悟空が戻って来るのは予定外だった。
そして、悟空のあの力も。

お陰で計画は狂い、金蝉を失うはめになった。
代わりに手に入れた悟空は金蝉よりも遙かに強い力を持っていた。
幼い心に宿った恐怖と怯えを利用して、暗殺道具に育て上げた。
従順に育てたはずなのに、今、こうしてニィの手元を逃げ出してしまっている。
あれほど薬漬けにして、手元に縛り付けておいたはずなのに。



今度捕まえたら二度と離してあげません、ねぇ…悟空



夢見るようにニィは悟空の名前を呟いたのだった。









   ◇◇◇◇◇









仕事の打ち合わせから戻った三蔵を出迎えたのは、無惨に荒らされた家と庭だった。

そして、一昨日買ってきたばかりのプリムラが踏みにじられ息絶えていた。
三蔵は家の中の惨状に、ひとり留守番させていた悟空はどうしたのかと、荒らされた家の中を悟空を捜して歩き回った。
しかし、家中くまなく捜しても悟空の姿は見つからなかった。
三蔵はひょっとして庭の隅に立ててある物置に隠れているのではないかと思い立ち、そこを覗いたが、そこにも悟空の姿はなかった。



一体何があった?



三蔵は荒らされた庭に立ち、気を集中させた。
薄紫のオーラが三蔵を緩やかに包み、三蔵の髪やコートが舞い上がる。
それにつれて、荒らされた庭のそこかしこから淡い光が湧き上がり始めた。
小さなその光は明滅しながら三蔵の周囲に集まり、三蔵を包み込んでいく。
光は三蔵を中心に大きくなり、やがて庭一杯に広がってまるで呼吸をするように明滅を始めた。

三蔵の瞳が開く。

紫暗の深いはずの瞳の色が金色の煌めきを放つ。
すっと、三蔵の手が上へ伸ばされ、同時に声が低く響いた。

「散!」

その声を合図に、光は爆発するように一瞬で三蔵の周りから消えた。

「…悟空」

悟空の名前を呟いて見上げた空は、夕焼けに染まっていた。






三蔵が仕事の打ち合わせから戻るほんの小一時間前、悟空は訪問者を迎えた。
三蔵は人付き合いが薄いのか、この家を尋ねてくる人間は、悟空が住むようになってからでも片手で足りるほどだった。

翻訳の仕事の依頼と原稿を取りに来る編集者と数少ない友人と名乗る人。

それだけだった。
呼び鈴が鳴って、インターフォンを取れば手元のカメラに映ったのは悟空がよく知る出版社の担当者だった。
悟空は疑うことなく鍵を開け、彼を迎え入れる。
そこで、悟空は凍り付いた。
玄関のドアを開けたそこに立っていたのは、ニィだった。

「みいつけた、悟空」
「…ぁ…ぁあ」
「かくれんぼは終わりだよ」

立ち竦む悟空に優しく笑いかけると、その腕をおもむろに掴んだ。

「…ぁやっ!」

悟空はその手を力一杯振り払うと、家の中へ逃げ出した。
玄関に置いてあるアジアンタムの葉が、悟空を追ってニィが家の中へ入るのを阻止しようとその腕を伸ばした。

「邪魔しない!」

ニィはアジアンタムの葉を鷲掴むと力一杯引きちぎった。
そして、家の中へ悟空を追って入ってゆく。
一緒に来た部下達は悟空の退路を断って追い込むために家のそここへ散らせた。
悟空はリビングでどこに逃げればいいのか、うろうろと見回す。
が、どうしたらいいのか、思いつきもしない。

「ど、どうし…三蔵…」

がたんと椅子に躓いて、悟空はリビングの窓に身体をぶつけた。

「あれ?もう、逃げないの?」

背後から聞こえたニィの楽しそうな声に、悟空の身体が竦んで、強張ってしまう。
そんな悟空をまるで猫がネズミをいたぶるようにニィが追いつめてゆく。

ニィが悟空に近づこうとするたびに、家のそここに置いてある鉢植えの植物たちがそれを阻止しようとその腕を伸ばし、悟空を庇ってニィの動きを止めようとした。

「煩いなあ、お前達は」

だが、ニィは、煩そうに行く手を遮るイースターカクタスを引きちぎり、ドラセナの葉を踏みにじり、植物たちの抵抗をものともしなかった。

悟空はうまく動かない身体を叱咤して、庭へ出た。
そこを待ち伏せていたニィの部下が、悟空を捕まえようと手を伸ばした。
その手を庭に咲くツバキが、枝をしならせて弾き飛ばす。

悟空は、庭の奥へ男達の手を逃れて走った。
庭に咲く花や草、木々は悟空を守ろうと男達に抗った。
が、それもニィの手に悟空が落ちた時止まった。
追っ手を振りきったと悟空が息を吐いたその時、ニィの腕が悟空の華奢な身体を後ろから捕まえた。

「…ひっ!」

声にならない悲鳴を悟空が上げる。

「悲しいなあ、あんなに可愛がってあげたのに」

悟空は真っ青な顔で、ニィの手から逃れようと暴れた。
しかし、腰に廻されたニィの腕は微動だにせず、いつの間にか空いた方の手に握られた圧迫注射器が暴れる悟空の首筋に当てられていた。

「いや!やだ!!いやぁ───っ!!」

がむしゃらに暴れる悟空をいなして、ニィはクスリを悟空の首筋に打ち込んだ。

「いやっ!三蔵!三蔵!!助けて、たすけ、て…さん…」

ばたばたと暴れていた悟空の身体から力が抜けた。

「だだっこだねぇ、君は」
「……ぃ…ゃ…さ………ぞ…」

力の入らない身体で尚もニィから逃げようと、悟空は身を捩ったが、身体は動くことなく、意識を無くした。




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