るりクルリ、世界が崩れはじめる




俺は机の上に置かれている紙切れを一度見遣り、それを手に取った。
それでもやはり意味が解らず、それを置き、また手に取った。
その行動が気になったのか、使用人が少し遠慮するように一歩、前へと出て来る。

「どうかなされましたか」

俺は視線だけ向け、またその紙切れへと目を落とした。

「どう断ろうか、良い言葉が思い浮かばん」

その紙切れには今夜の時刻と場所が記された、いわゆる娯楽としての舞台のチケットだった。

「それなら身を任せてご出席なされた方が宜しいのでは」
「馬鹿を言うな。興味もない物を見に行っても仕方ない」

使用人は軽く、それでも決められた姿勢で一礼すると、すっとその場から遠ざかる。
最近というもの、こういった誘いが多くなった。
前までは父が出向いていたのだろう。
今ではその分までもが俺に回ってくるのだから、その数は計り知れない。
全てに付き合っていれば、到底身が持たないのは目に見えている。
前には仮病を使っていた。もう一度同じ事を言える訳でもない。
俺は心底迷惑にため息を吐くと、そのチケットを机の上に放り投げる。

「周りの奴らは皆暇なのか」

と俺は言った。

「馬鹿馬鹿しい」

そう呟くと同時に、広間にくすくすと笑う声が聞こえ、俺は眉を顰めながらそちらへと振り向いた。

「暇を無理やり作ってでも、若様にお目に掛かりたいのですよ」

父や母は外国に興味を示し、この広間も今ではすっかり洋式に飾られていた。
壁にはこの国では見られないような時計が日々時を刻んでおり、その時計に目を遣りながら、ドアから突如現れた一人の執事が、愉快そうに、それでいて不愉快そうに笑みを立てて広間へと姿を現した。
聞きなれた革靴の音が、床と擦れてコツリ、と乾いた音を立てる。

「何が可笑しい?」

と俺は眉を吊り上げた。

「いいえ、何も可笑しい事などありませんよ。ただ、もう少し考えて欲しいのです」

執事は俺の横で立ち止まると、浅く一礼を見せてから、口元を歪める。
「そのお相手は誰だかご存知でしょうか」
「知らん」
「ああ、それはいけない」

執事の声は酷い物だった。
芝居掛かったその口調に、俺は不快を覚えた。

「今夜はお暇があります。私がお相手に御返事を返させて頂きましたので、どうぞご理解頂きたい」
「理解?」と俺は鼻で笑いながら、執事へと顔を向ける。「理解だと?」

俺の為にしてやっているような、その思考が腹ただしく、何よりも人間は醜い生き物だのだと知らされる。
言ってやりたかった。

お前は俺が玄奘だからこそ、その”玄奘”に価値を見出しているのだろう?
三蔵、ではなく、この玄奘と言う家系に、お前は惹かれているだけだ。
もし、俺がこの家を捨てたとしたら、お前はそれでも俺に価値を見出すのか?

それはあまりにも子供染みた考えで、俺は自分自身に腹を立てながら机の上に置かれたチケットへと視線を落とした。それは何者にも見えず、ただ、そこに紙切れがあるようにしか思えない。
誰かが嘲笑うような気がした。




季節にしては肌寒く、学生服では風邪を引くだろうと俺はその上からコートを羽織り、会場へと向かった。
馬車では人が多い場所では使用が悪く、自動車に乗り込み、外よりも冷え冷えとした車内で、ひとつ白い息を吐き出した。
腕を組みながら目を閉じていると、遠慮した音でドアが叩かれる。

「若様、若様。どうぞお目をお開け下さい」

視線を向けてやると、安心したようにため息を付き、ドアが開かれる。
車内よりもいくらかはましな温度に、俺は深く学帽をかぶり直し、少し歩幅を広げて会場へと向かった。
最近建てられた館だけあって、外の造りも仕掛けに溢れている。
ライトに照らされた外壁が浮かび上がるようにその存在を見せ付けており、夜中だというのにここら辺りは昼間のように明るかった。
今回の出し物は人気があるのだろうか。
まるで街の者たちが一度に集まったかのように、会場は人で溢れている。
この数が全て収まるくらいなのだから、館内は相当広く作られているのだろう。

「お前は外で待っていろ」

コートを脱いで腕に掛けながら使用人にそう告げ、俺はそのまま一人で中へと入り、お待ちしております、と小さく呟いた使用人は、俺の背後に頭を下げた。
中も空席が見当たらないくらいに人が納まり、がやがやとした雑談がひとつの音として館内に響いているのを、俺は眉を顰めながら聞いていると、もし、と声が掛けられた事で咄嗟に振り返る。

「まぁ、まぁ。三蔵様でいらっしゃる。まさかおいで頂けるなんて」
「今回はお声を掛けて頂き、誠に在り難い」

いえ、いえ、とまんざらでもないかのように、相手の女は頬を紅く染めた。
女に案内されるがままに席に着き、当たり障りの無い会話を交わしている内に、開演の時間となった館内にそのことを知らせるベルが鳴り響いた。
会話の中で今回のことを聞いていると、どうやら舞いの舞台のようだった。
得に名の知れた役者が出るらしく、この異常ともいえる人の多さに俺は納得した。

「三蔵様は芸能には御興味がないようでいらっしゃる」
「いや、少しは知識があるつもりだが、あなた程では」

嘘を言っているつもりはなく、芸能の中でも、舞いは特に興味がある。
儚い物語を歌にして演じるその世界は、決して嫌いではなかった。
着物を着こなし、袖さえも巧みに使いながらひとつの世界を作り上げるのだから、感心する他ない。

「今回はとても美しい舞いでしたので、是非三蔵様にも観て頂きたかったのです」

周りが暗くなり、舞台だけに光が照らされる。
すっと重い垂れ幕が引きあがり、目の前には上から紙吹雪が舞い落ち、その色が桜に似せいているのを知った途端、中央に一人の人影が写った。
袖で顔を覆いながら紙吹雪の中にうなだれるように座り込むと、音を立てずに泣き始め、丸窓から零れてくる月の光が一層舞台を輝かしい物へと変えていた。
芸能を単調な言葉で表現するのは好ましくなかったが、俺が見たものの中で、一番に美しい世界だっただろう。それは紙端に変わりないのに、まるで本物の花弁かのように思えるくらい、会場の人はその舞台に酔い始めていた。
途端に泣き崩れていた人物の顔が持ち上がる。
顔を覆っていた袖を追い払った時、会場内が驚きに満ちた声で溢れ返った。
うなだれたいた一人は徐に立ち上がり、花弁を手で掴み取ると、そっとそれを唇に押し当てる。
伏せていた瞼が持ち上がり、その瞳が露になった。
俺は息を呑み、膝で軽く握っていた拳に力を込めては、溢れ出る衝動にきつく蓋を閉めた。
どよめきを隠せない声が、周りから聞こえてくる。

金の瞳だ。

あの日から焼きついて離れない色が、途端に目の前に姿を現し、多くの観客を魅了している。
それは俺自身も例外ではなかった。
その事に俺は片手で口元を押さえ、笑い出しそうになるのをどうにか堪える。

「・・・三蔵様?」

俺を不審に思ったのか、女が不安そうな声を上げて眉を顰めた。
この女に感謝しなければ、そう思うと益々笑みが収まらず、無理やり仕舞いこむかのように顔を歪めて見せた。

「なにか?」

俺の顔に驚いたような表情を見せ、機嫌を損ねたと思ったのだろう。
いえ、と口の中でごもりながら女は悲しみにくれるように顔を俯かせた。
俺は笑みを収め、正面へと顔を上げた。

「孫、か。そうか、孫家か」

孫家は芸能の世界では有名な一族で、代々才能ある者が産まれ、その名を今もこの国に轟かせている。
確か美しい女が今の孫を名乗っていると聞いてはいたが、まさか、今回その女の息子の初舞台だったとは思いもしなかった。
それ以上に、思いも寄らない出会いが俺を奮い立たせていた。

「あいつの名は、知っているか?」
「ええ、知っています。孫悟空と言いました。これが初の顔見せですが、その噂は随分昔からありましたので、初舞台、といっても良いものかどうか」

駆け出して、あの存在をこの腕に確かめたかった。
姿を見た途端、その欲求は底がないかのように溢れ出し、俺を荒く駆り立てる。
そもそも何故もっと早く気づくことが出来なかったのだろうか。
そう思えばいくらでも繋がるはずだった答えだっただけに、俺は煮え切らない思いを持て余す。
同じ空間に居るのに、この離れた距離がもどかしい。
あいつが集める多くの観衆の視線が腹立たしく、醜い嫉妬が頭を駆け巡った。
地に散らばった花弁を舞い上がらせるように振袖を揺らしながら中央で舞い踊る様は、何よりも神秘的だった。
うっすらと引かれた紅い唇が、誰もを魅了するように笑みを作る。

「ああ、今夜は忘れられない日となりましょう」

女が付く至福にも似たため息が聞こえ、俺は相槌を打つように口元を吊り上げた。




外は夕刻よりも更に冷え、月が一層その輝いた光を降らせていた。
その光で影が出来るほどに、今夜の闇は明るくそれいでいつもとは違った世界を作り出している。
それは舞台を見終わった人々も同じようで、うっとりと頬を染めながら会場を後にするその姿は幸せに満ちているようだった。

「三蔵様、お食事は御済ですか?」

幸せに酔ったように、女がそう囁き漏らす。
けれど俺はそれに曖昧に答えながら、それよりもこれからの事を考えていた。
名は解ったにせよ、それでは何の意味も持たない。
同じ空間に一時でも居たとしても、それでは全く意味を持たない。
触れ合い、抱き寄せ、この手に収めなければ、この出会いはだた一刻と過ぎて行く時間の中のひとつに過ぎない。
コートの前を掻き抱きながら、俺は焦りにも似た思いで月を見上げた。
照らし出す道筋が目の前に広がり、まるで地から光が溢れるかのように白く浮き出ている。
俺は一歩踏み出し、その道筋を確かめるように徐々に歩を進めたが、少しずつ、その歩幅を広げて行き、終いには学帽を取り、コートを閃かせながら走り始めていた。
背後から女の問いかける声が聞こえたが、それを払いのけるように人ごみを掻き分けながら走り続けた。

人気が徐々に無くなり始め辺りは益々月だけが照らすだけとなり、目の前に一本の樹木が見え、くっきりと下に影を落としながら悠々と聳え立っている。
荒い呼吸を吐き出しながら、俺はそれを視界に捕らえた。
舞台で揺らめいていた存在が、今は着物ではなく学生服に身を包み、学帽を深くかぶりながら暗闇の中に差す月の光を浴びるかのように空を見上げている。
吐く息は白く、ぐっと下唇を噛んでその寒さに耐えていた。

その樹木が作る影に潜むように、寒さで頬を紅く染めながら空を見上げているその存在に、俺はそっと近づき、腕を伸ばして手首を掴み取ると、こちらへと無理やり振り向かせる。
そっと瞼を持ち上げ俺の顔を捉えた途端、その金瞳は酷く打ちひしがれたように丸く見開かれ、途端に揺れるようにそっと視線を外した。
その恥じらいや仕草が、触れている掌から伝わる体温のように、熱く、それでいてもっとも弱い態度を示した。

俺は力強く相手を引き寄せると、きつく腕の中へと引き込む。
首筋に当たる吐息が愛しく、今まで求め続けていた日々が嘘の様に甘いものへと変わっていくのが解った。
このままひとつになれたなら、きっとこれ以上離れる事はないだろう。
互いを隔てるこの肌が忌々しいと思えるほど、俺はきつくきつく相手を抱きしめた。

そっと手を顎に添えて顔を上げさせると、白い肌が紅く染まる頬を伝うように、その金目からは涙が滴り落ちる。俺は覗き込むようにその目尻へと唇を落とし、その涙の意味を理解していながらも、止める事の出来ない思いを悔やんだ。それ以上に、世界を呪った。
すっと瞼を降ろした時にも、溢れる涙が頬を流れた。
それを指で掬い取りながら、両頬を包み込むように手を沿え、硝子に触れるかのように、そっと、冷え切った唇を重ね合わせた。
重ね合い、舌を這わせた瞬間、また相手の瞳から涙が零れ落ちた。
互いに理解しているにも関わらず、俺たちは一つの罪へと手を伸ばし、それを掴んだ。





── 続く




2006/5.12

坦々とした流れで申し訳ないです。(ありきたりだし)
michikoさまに感謝を込めて。

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