ただそこにあったものを背負っただけなんだ
薄々と予感していた事が現実になった時、それは、予感していた物よりも酷く残酷に降りかかる。
母に気づかれないように俺は出来るだけ音を立てずに門を閉め、学帽を取り、平伏すように膝を突いて頭を下げた。そうでもしなければ、家の中にまで入られる恐れがあった。
俺は紋章に頭を垂れ、それを食い止めようと必死だった。
「孫悟空は貴様か」
と男が声を掛ける。
「はい。そうです。私が孫悟空です」
寒空の下、俺は冷えた地面に平伏しながら答える。
服を通してその冷たさが浸透してくるが、俺はその格好を崩すような事はしなかった。
「今すぐ屋敷へと案内しよう。有無は言わせんが、それでも何か言いたい事はあるか?」
俺は祈るように膝に掛けていた拳を握り締め、更に深く頭を下げた。
相手の革靴が視界に写り、それを睨みつけるように、俺は小さく呼吸を繰り返す。
「いえ、何も御座いません。ただ、一言だけ許されるなら、どうか、母だけは無縁である事を、だたそれだけを強く言わせて頂きたいのです」
母も誰も巻き込んではいけない。
これは自分が知っていてなお留まろうとしなかった自分への、罪深い事の当然の報いだと思った。
それらを全て受け入れる覚悟はあの日、もう一度巡り会い、たった一度だけだったとしても、全てを投げ出しても交わした接物の代わりにしていた。
これ以上、何も望んではいけなかった。
男の革靴が視界から消え、車の扉が開かれる音が耳に届く。
「十分に理解しよう。我々は、貴様に用があるだけなのだから。母上には何も言うまい」
俺は無言で顔を上げ、男に言葉にならない感謝を告げた。
連れられた部屋は薄暗く、目を細めなければ相手の顔もおぼろ気になり、上手くその表情を判断することは出来そうにもなかった。
ひとつだけ取り付けられている窓から、大きな桜が見え、冷え切り透き渡った空気によって深い色を咲かせている。
卓の上に一弁の花弁が舞い込んで、目の前に揺れるように舞い落ちた。
何かの前兆のように、その花弁は俺の脳裏に焼きつく。
残酷すぎる程の桃色から、俺は目が放せなかった。
「先日、若様が貴様が舞う舞台へと足を運び、御覧になったのは知っているだろう」
俺はその花弁から視線を上げながら、声がする方へと目だけを向けた。
「はい、知っております」
「若様と御覧になっていた姫君がいらっしゃってな。私共にとっては信じがたい事を口になされた」
俺は表情ひとつ変える事無く、ただ黙って、聞こえる声だけを頼りに耳を澄ませる。
この部屋は薄暗く、自分のごく一部しか確認することが出来ない程の闇が支配していた。
降りかかる物に身構えるように、俺は一度だけ下唇を噛み締めた。
「事実を知りたい。どうか、嘘を述べず、ありのままを言って欲しい」
「はい」
と俺は言った。
「心得て居ります」
本当に嘘偽りなく伝えることなど、初めから考えてなど居ない。
それでもひとつだけは、貫き通したい思いがあった。
「若様と接吻を交わしたのか?」
「はい、事実です」
目の前にいる相手は、ああ、と嘆くように声を漏らし、卓の上に両手を置いて額へと揉み解すようにそれを持ち上げたのだろう。
卓が軋む音と、椅子が揺れる音が同時になり響いた。
「ああ、嘆かわしい事となった。あってはならない事だ。それは貴様にも解っている筈だろう」
「はい、十分理解しております」
「どちらから仄めかした?それとも、互いに認め合ったのか?」
相手の声が一段と低く、部屋に充満していく。
それを肌でかんじながら、俺は怯む事無く告げた。
「私が若様を仄めかし、無理やりにした事です。全ての原因は私にあります」
外の風が強まり、強く部屋の中を掻き乱しながら花弁を舞い込ませる。
舞台から見たのは、ただあの人ひとりだけだった。
大勢の観客の中で、俺はあの人しか見えていなかった。
きっと、俺の人生の中であれ程素晴らしい舞台はもう二度とないだろう。
俺は大勢の前で舞えた事と、捜し求め、手を伸ばし続けた存在を、同時に味わうことが出来たのだ。
「私が招いた事です」
俺は自分に言い聞かすように、そう呟く。
「私が火種なのです」
「何という事だ。貴様、玄奘に恥をかかせるのか」
「いえ」
と俺は顔を上げる。
「省みる心はあるのか」
「いえ、後悔はしておりません」
相手が椅子を倒しながら立ち上がる気配があった。
わなわなと震える歯を堪えるように、相手は卓を思い切り叩きつけ、初めてその顔を見せるように、俺の目の前へと顔を突き出した。
その目は散乱としていて、焦点があっておらず、人がこれ程までに怒り震える事が出来るのだと知った。
「覚悟があるのか?」
俺は怯む事無く、目を向ける。
「覚悟など、当の昔から出来ています」
「ならば良い。もう二度と若様に会う事は許さん。それに貴様は幽閉させて頂く」
幽閉、と俺は頭の中で繰り返した。
しかし動揺や名残惜しい気持ちはひとつもなく、ただ、ちゃんと最後の言葉を伝えられなかった母に対して、詫びたい気持ちに駆られた。
俺と同じに不器用な性格だったために、母も余計な物を背負い過ぎた。
そのひとつに、俺までもを背負って欲しくは無い。
「もう一度聞く。貴様、本当に省みる事はないのだな?」
俺は全ての思考を途絶えさせ、瞳から光を遠のけた。
写るのは、ただ窓から見える咲き乱れた桜だけだ。
「私はきっと、あの日の為に厳しい稽古にも耐えてきたのでしょう」
目の前で花弁が舞い上がり、床へと吸い込まれた。
誰に別れを告げることもなく、俺は山中へと連れてこられ、屋敷の中へと吸い込まれる。
実際自分で赴いたのだが、自分の意思ではなく、身体が勝手に動き出したようだった。
数十年の歳月をそのままの形で残したようなその屋敷は、今の日本のように外国の洋式を取り入れたような矛盾した物ではない。
俺はそのことに歓喜し、そっと口元を緩める。
純な日本など、もう都には残っていない。
でも、この山中には列記とした日本が存在した。俺は恐る恐る顔を上げる。
「本当に、この屋敷でしょうか」
付き人として横にいた男は、一瞬呆けを付かれたかのように目を見開いた。
「そうで御座います。この屋敷で彼方様を幽閉させて頂くのです。こんな山奥ですから、人気など無に等しい場所です。ここなら誰に見られる事も御座いませんでしょうから、彼方様は本当の幽閉という意味をご理解なさるでしょう。深い闇の本当の息遣いを感じることでしょう」
俺は付き人に小さく頷き、その意味と息遣いを深く考えながら、引かれた襖の奥にある部屋へと足を踏み入れた。
畳の青臭い匂いが立ち込めていて、俺は一瞬むせ返りそうになりながらも口元を手で覆う事によって何とか堪える。
何も置かれていない四角い箱のような場所だった。
布団は自分で引くようになっており、簡単な筆記用の机とランプ、ただ光を入れる為だけに作れらたような小さな窓がひとつ、他は畳の独特の匂いしかない。
「これからは私とこの屋敷で暮らして頂く事となります。どうぞお見知りおきを。食事は決められた時間事に部屋の前に運びますので、その襖を引いてお取り下さい。下げる時は同じ場所に置いて下されば、私めが下げに参ります。彼方様は極力この部屋から出ては参りません。これは決められた事です。有無は聞き入れられません。もし出る事が御座いましても、私が傍に付きますゆえ。それ以外は私に何なりとお申し付け下さい」
「手紙も駄目でしょうか」
と俺は訪ねる。
「手紙は一度私めが目を通し、何も問題がなければ送り届けます」
それを聞いて、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「それだけが心配だったから、安心しました。あなたの言う事に異存はありません」
男は正座をした格好で軽く頭を下げ、襖を音も立てずに静かに閉めきり、その襖の更に置くにあるドアを引き錠を掛けた。
二重となったからくりのようなそのドアは、こういった幽閉や監禁の為に作られたものだろう。
重々しい鉄の音を響かせながら鍵が閉められる。
俺はようやく畳に座ったが、足を崩す事が憚られ、そのまま正座のままで机に向かってその上に紙を広げた。
何も言えず別れ、全てを知っていたとしても、俺を愛してくれた母に、俺はすぐさま手紙を書き綴り始める。
親愛なる母上
この様な事を書く事など、本当に在ってはならないことです。
けれども過ぎ去ってしまった事に後悔していても、現実は時を止める事無く流れ続け、それに見合うだけの罰を求め続けます。
こんな時に母上が昔言い聞かせた言葉を思い出してしまうのは、きっとその事実を受け入れているからでしょう。
母上は言いました。
自分が犯した事を恥じてはいけない、と。
皆はその事を知ったとき、お前を皮肉の目で、哀れみの目で見るでしょう。
それで十分なのです。お前まで自分を恥じてはいけない。誰がお前を救ってやれるのです。
それはお前しか居ないのです。
母はお前を愛しています。
お前がどんな事を犯そうが、憎む事など出来ないのです。
それでも母はお前を救う事は出来ないでしょう。
お前が犯した事を許すのは、お前自身なのだから、と。
母上、俺は自分を恥じてはいません。
後悔もありません。哀れむ事も、罵る事もないのです。
寧ろそうならない自分が恐ろしいのです。
ですが、俺は満足しています。今、こうなった事に誇りを持ちたいのです。
この手紙に嘘偽りなく、全てを書き記そうと思っています。
母上は全て知っているかもしれません。
でも、俺の口から、全てを聞いて欲しいと、強く思っているのです。
若様と初めて出会ったのは、初舞台の為稽古に励み、日も落ち、月が昼間支配していた太陽の変わりに浮かび上がっていた時でした。
春を思わせる生暖かい風が吹き荒れ、それに靡く葉の音を聞き入れながら、先ほどまで練習を重ねていた歌を口にしました。
その日は歌が滑らかに流れ、俺は喜びのあまり少し回り道をして家路を歩きました。
猫が目の前を通り、人懐っこいのか、足元に擦り寄ってきます。
母上もご存知だと思いますが、俺は動物が好きです。
腰を下げ、猫の喉を擦ってやりました。
心地良さそうに猫が喉を鳴らし、葉の音と良く混ざり合いながら春夜の独特の雰囲気を感じられました。
月は欠けていました。
それでも強い光を放つのです。
俺と猫の影がはっきりと地に映し出されていました。
その日全てが月の光に包まれていたのです。
それは俺も例外ではありません。
猫でさえその範疇にあります。
音も風も葉も地も、全てがその中にありました。
歌を無償に口にしたくなり、俺は猫を抱き上げながら歌いました。
先ほどよりも歌は良くなっている気がして、猫の喉を優しく撫でてやります。
途端に猫は目を大きく見開き、暴れる事もなくするりと零れ落ちるように俺の腕から逃れました。
猫の鳴き声がします。
俺は歌を留めることなくそちらへと顔を向けました。
革靴の音が響き、月明かりに照らし出されながら、徐々に俺へと近づいてくる。
目をそむける事は出来きず、それでもたえず歌を口にしていました。
自分で留めることが出来ないのです。
暗闇の中から足先が見えて、まるで時間がゆっくりと流れているかのように、その闇の中から人の形が浮き出てきます。
知らず知らず俺の掌には汗がありました。
心臓はいつもより動き回り、呼吸も乱れています。
そのままその場所に倒れ崩れたい気分になりました。
何かが頭の中で響き渡り、警告を教えるかのようでした。
それでも身体は言う事を聞こうとはしません。
顔すら背けることもできません。
月の光を浴びながら、若様が目の前に現れたのです。
先ほどの猫が若様の足元に居り、喉を鳴らしていました。
一瞬にして場の空気が吸い取られてしまったかように、俺は呼吸をすることが出来なくなり混乱しました。
猫の喉を鳴らす音だけが聞こえます。
気づいた時には俺は涙を流しながら歌を口にしていました。
悲しいのではなく、それは慈愛の感情でした。
母上、もうお気づきになられたでしょうか。
名も顔も覚束ない出会いだったのです。
それでも俺は惹かれ求め、若様だったのだと気づいても尚、もう一度会いたいと強く願っていたのです。
しかしこうなってしまった以上、俺はもう生きている間、いえ、この世にいる間は二度と若様には会えないと覚悟しています。
勿論母上とも、もう会うことはないでしょう。
この最近、眠る事が出来ずにいました。眠る事が怖いのです。
浅い眠りならまだしも、夢を見ることがとても怖く恐ろしかった。
でも、それも今日で拭い去ることが出来るでしょう。
場所を記す事は出来ませんが、ここは闇の息遣いが聞こえてくる場所です。
闇に溶けてしまえば、何も恐れる事はありません。
夢などという物はこの空間にはありません。
あるのは闇と俺だけです。
俺はやっと夢を見ずに眠りに付く事が出来るのです。
喜ばしいことです。
これを読んだら、すぐに火にくべて下さい。
名残惜しい事などありません。
そんな価値すらこれにはないのです。
最後になりますが、ただ、ただひとつ聞き入れてくれる誰かがいるのなら、俺はやはりもうひと目お目に掛かりたいと、願わずにはいられないでしょう。
たとえ命を絶つ事になろうとも。
願わずにはいられないのです。
── 続く
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