sight line (10)

乾いた音を立てて如意棒が悟空の手から落ちた。
それを待っていたかのように悟空の躯に無数の手が触れてくる。
その手が悟空の手足を押さえ、着ているものに手をかけ引き裂く。
見てる間に一糸まとわぬ姿に剥かれた悟空の躯をその手が這い回った。
その感触に悟空は怖気立つ。

「やだ!離せ!触るなぁ──っ!!」

手が悟空自身に触れた瞬間、悟空は我を忘れて悲鳴を上げた。




「うわぁあぁぁ───ぁっ!!」

跳ね起きた悟空に驚いた三蔵が悟空の名前を呼ぶ。
けれど三蔵の声は届かないのか、悟空はそのまま何かを振り払うように両手を振り回し、そこから逃れようと暴れた。
三蔵はそんな悟空を躯で受け止め、力を込めてもう一度名前を呼んだ。

「悟空!!」

その声に悟空の動きは止まり、何かを確かめるように宙を彷徨う。
そして、三蔵の躯に触れてようやく落ち着きを取り戻した。

「…三蔵、俺…」

手探りで三蔵の頬に手を伸ばす悟空の手に触れて、三蔵はそっと口づけた。

「大丈夫だ。何とか追っ手は巻いた」
「うん…」

三蔵の腕の中で悟空は頷くと、ぽつりと呟いた。

「俺、どうなっちまったんだ、ろ?」
「何がだ?」

問えば、悟空は見えない目をこらすように瞳を大きく見開いて眇め、疲れたように三蔵の胸に顔を埋めた。

「目は見えねえし、躯はこんなだし…三蔵以外に躯触られてて、変な夢見て、足手まといだし…さ」

くぐもった声が今にも泣きそうに潤んでいる。
腕の中の華奢な躯を見下ろせば、項が微かに震えていた。

「気にするな。原因はあの蛾月って野郎だ」
「でも…」

三蔵の言葉に顔を上げた悟空の瞳は薄い水の膜に覆われていた。
その眦に三蔵はそっと唇で触れ、金鈷に触れ、頬に触れた。

「…さんぞ」
「もう一度言う。気にするな。何もかもあのクソ忌々しい野郎の所為だ。ぐだぐだ考えるのはアイツを倒してから考えろ。いいな」
「…うん」

頷く顔が納得していない。けれどその会話はここで打ち切られた。

「囲まれてる…?」
「らしいな」

霧雨の雨の気配に混じる刺客達の気配。
それは三蔵と悟空が身を潜めていた大きな灌木を囲むように迫っていた。

「三蔵」
「大丈夫だ」

三蔵は悟空を安心させるように大地色の頭を軽く叩き、身構えた。
その三蔵の腕を悟空が引っ張った。

「何だ?」

気配に気を配りながら三蔵は悟空を振り返った。

「…俺を置いて行ってくれよ」
「何を言ってる?」

悟空の言葉に三蔵の紫暗が驚愕に見開かれる。
その驚きに悟空は気付かないまま言葉を続けた。

「だって…俺、今三蔵の足手まといだ。それに…三蔵が言ったように蛾月って奴の目的が俺なら簡単に殺されやしないはずだろ?俺が時間稼ぎしてる間に三蔵は逃げられるだろ?」

焦点のぼやけた金晴眼が真っ直ぐに三蔵を見つめている。
その真摯な色に三蔵はしばらく声を出すことができなかった。




蛾月が気付いた時、三蔵の姿も悟空の姿も蛾月の前から消えていた。
あと少しで孫悟空を自分の傀儡にできるところだったと言うのに、自分を孫悟空から打ち払った閃光が、それを施した三蔵法師が邪魔をしたのだ。

三蔵一行の存在を知った時から気になっていた玄奘三蔵法師という僧侶に向けられる孫悟空の揺るぎない視線と絶対的な信頼。
妖怪と人間の間にそんなモノが成立するなんて聞いたことも見たこともなかった。

孫悟空だけではない。
共に旅する猪八戒も沙悟浄も玄奘三蔵に揺るぎない信頼を寄せていた。

玄奘三蔵の何がそうさせるのか、彼の行動からも言葉からも信頼を向けるに足るものを蛾月は見いだすことができなかった。
それなのに彼らは真っ直ぐに玄奘三蔵を見つめ、揺るぎない。

特に孫悟空は盲目的と言える程、玄奘三蔵に思いを寄せていた。
あの黄金の瞳は、焔を内包する力強い真っ直ぐな視線は、玄奘三蔵だけを見つめ、玄奘三蔵だけに注がれていた。

何があっても、どんな争いや諍いがお互いを襲っても、玄奘三蔵に向けられる孫悟空の視線と信頼は欠片も揺らぎはしなかった。

それが、羨ましいと思った。

蔑みの目や畏怖の目で見られたことはあっても、蛾月をそこまで信頼し、熱い視線を向けてくる者は居なかった。誰一人いなかった。

そして、不公平だと思った。

人間で最高僧だと言うだけで、無条件に彼の味方は何人もその手にあり、慕う者がいるというのに、その上、唯一無二の存在だと信じて疑わない存在まで手にしていることが妬ましいと思った。
自分には無条件に味方をしてくれる者など、どんなに望んでも現れはしなかった。

だから、欲しいと思った。

あの眩しい程の黄金を自分のモノにしたいと思うようになった。
傍らで蛾月だけを見つめ、蛾月だけに信頼を寄せ、蛾月だけを思う存在として欲しかった。

その機会がようやく巡って来たというのに、手に入れる寸前で逃げられてしまった。
いや、玄奘三蔵に持って行かれてしまったのだ。

その上、気を失っている蛾月を、敵である蛾月を殺すことなく放置して行ってしまった。

これほどの侮辱があろうか。
敵として値しないと見下されたようなものだ。

「玄奘三蔵、見つけたら孫悟空の面前で切り刻んでやる」と、蛾月は雨雲のたれ込める空に誓い、部下を総動員して三蔵と悟空を探し出して、追いつめるように命じた。




「三蔵…俺を置いて行って…」

そう告げる言葉と裏腹に、三蔵の腕を掴む悟空の手は離さないでくれと言うように震えていた。

「三蔵が無事なら俺…頑張れるから…あ、あんなことされても平気だか…っ!!」

ぱんっと、乾いた音が響いた。

「…さ、んぞ…」

頬に広がった熱い痛みに悟空は、掴んでいた三蔵の腕を離した。

「……けんじゃ、ねぇ」
「………ぇ?」
「ふざけたこと抜かしてんじゃねぇ、このクソ猿!」

力一杯肩を掴まれた悟空の躯は灌木に押し付けられた。
その衝撃で一瞬、息が詰まり、胸の痛みがぶり返す。

「…っぁ!!…俺はふざけてなんかない!逃げるためにはしかたないじゃんか!」

忙しくなる息にかまわず、悟空が言い返した。

「それがふざけてるって、言ってんだよ、サル!」

三蔵の剣幕に悟空の瞳が見開かれる。

「さ、んぞ?」
「何のためにここまで怪我した足手まといなテメエを連れて逃げて来たと思ってやがる?」
「それは…」
「あんなクソ野郎にお前を渡さない為だろうが」
「う、うん…」
「それを簡単に諦めやがって」
「諦めてなんか…」

三蔵の言葉に悟空は大きく首を振る。

「俺を一人逃がそうとする、それが諦めてるって言うんだよ。何で自分を担いででも連れて行けと言わない?怪我して目が見えないから、足手まといだからだと?そんなもん、はなっからわかってることじゃねえか」
「さんぞ」
「いいか、そのイカレタ脳味噌働かせて聞け。俺たちに諦めるなんて言葉はねえんだ。俺たちの邪魔をする奴は叩きのめし、蹴散らして俺たちは前へ進むんだ。それにテメエは何があっても傍に居るって決めたんじゃねえのか?こんな馬鹿げたことぐらいで簡単に翻る程度の決心だったのか? 」

その言葉に見開かれた悟空の瞳から堪えきれない涙が一筋こぼれ落ちた。

「違う!そんな簡単にあ、諦められるようなことじゃねえ」
「なら、足手まといでも何でも傍にいろ、バカ猿」

そう言って、三蔵は掠めるように悟空の唇に口づけを落とし、

「テメエは誰にもやらねえよ」

と、悟空に囁いた。




 

9 << close >> 11