旅の途中 (12)

「ねえ、坊や」

三蔵が宿の支払いをしている間、所在なげに入り口の階段に座っていた悟空に、その女性は声をかけてきた。
柔らかな声に振り向けば、艶やかな黒髪に濃い藍色の瞳の綺麗な女性が、花のような笑顔を浮かべて悟空を見下ろしていた。

「なに?」

小首を傾げて問えば、

「道を教えて欲しいんだけど」

と、返事が返ってくる。

「道?」
「そう、雑貨屋さんなのだけれど、よくわからなくて」
「雑貨屋さん?」
「ええ、坊や知らない?」
「えっとぉ……」

雑貨屋───昨日、この町に着いて宿を決めた後、三蔵と行った店が確かそう言う名前だった。
場所は確か、宿の前の路地を抜けた先の道を・・・。
思い出して行く内にだんだんと訳がわからなくなってきた悟空は、返事を待っている女に口で説明できないことに気が付いた。


どうしよう……


困り果てた悟空は、宿の中を振り返った。
頼みの三蔵は、宿の主人と何やら話し込んでいる。


うんと…


難しい顔で考え込む悟空の様子に、女性は困ったような、申し訳ないような何とも言えない表情を浮かべて待っている。
悟空は、ちょっとぐらいなら大丈夫、と、心を決めた。

「俺が、連れてってあげる」
「えっ?」

考え込んでいた子供が急に顔を上げたかと思うと、零れんばかりの笑顔でそう言ったのだ。
びっくりしない方がおかしい。
女性が何と答えようか迷っていると、手を取られた。
何?と、驚きながらも目顔で問う女性にもう一度悟空は笑いかけると、

「こっち」

と言って、歩き出した。
手を引っ張られるままに女性も歩き出す。

「すぐだからね」

振り返って悟空はそう言うと、こっち、こっちと引っ張って歩く。
その一生懸命な様子に、女性は口元をほころばせ、

「ありがとう」

悟空にだけ聞こえる声で、礼を言った。

「どういたしまして!」

くすぐったそうに首を竦めて答える悟空の笑顔は、輝いていた。








宿の前の路地を抜け、一本東の通りに出た悟空は雑貨屋を目指して歩く。
だが、悟空の覚えていたのはそこまでだった。
女性の手を引っ張って、路地を出た通りを右へまっすぐ歩く。
そして、三つ目の角を右に曲がった道の端から・・・


あれぇ…?


覚えていたはずなのに、そこに雑貨屋はなく、変わりに薬屋があった。

「あれ…?確かにここのはず…」

薬屋の前で立ち止まって首を傾げる悟空を女性は黙って見つめている。
手を繋いだ女性を振り返った悟空の顔は、困り切った表情をしていた。
そんな悟空に女性は笑いかけると、礼を言った。

「いいのよ。ありがとう、坊や」
「…ごめん」

うなだれる悟空に女性は優しく頬笑むと、提案を一つ、悟空にした。

「一緒に探してくれる?」

女性の提案というよりは、お願いに近い言葉に悟空は、うつむいていた顔を上げた。

「……でも…」

口ごもる悟空は、三蔵のことを思い出していた。
道を聞かれて、それが昨日行った知ってる場所で、すぐに答えられることが嬉しくて、役に立つことが嬉しくて、いさんで道案内をかってでた。
それなのに、わからない。
その上、三蔵に黙ってここまで来てしまった。
きっと、心配してる。
いや、絶対に怒っている。


どうしよう…


悟空はもう、道がわからないことより三蔵のことで頭が一杯になってしまった。


早く、宿に戻らなきゃ


繋いだ手を離し、悟空は女性に向かって「ごめんなさい」と告げると、宿の方へ走り出した。
その後ろ姿を見つめる女性の口元が、楽しそうにほころんでいた。











来た道を辿ったはずなのに、そこには見たこともないたたずまいの家が建っていた。

「…うそぉ…」

座り込みそうになる気力を振り絞って、悟空は見知った建物がないか辺りを見回した。
しかし、見覚えの建物など在るはずもなく、悟空の胸は不安に染まった。

「さんぞぉ…」

ぎゅっと、上着の裾を掴んで、三蔵を呼ぶ。
いつもは、迷子になった悟空を三蔵は、

「このバカ」

と、酷く不機嫌な声で呼んで、探し出してくれた。
だが、今日は三蔵に無断で来てしまったから、三蔵は見つけてくれはしないだろう。
そう思うだけで、悟空は居たたまれない。
三蔵の姿を求めてしゃにむに走り出したくなるが、動けば益々迷子になることは明らかだった。

「さんぞぉ…」

か細い声で三蔵を呼びながら、悟空はその場に踞ってしまった。
と、その肩に手をかけられ、悟空はびっくりして顔を上げた。
そこには、先程道を訊ねてきた女性が立っていた。

「あっ、さっきの…」
「こんな所で、何してるの?宿へ帰ったんじゃなかったの?」

問われて、悟空はうなだれた。

「どうしたの?」

心配する声に悟空は、遂に泣き出してしまった。
途方に暮れたところに例え僅かの間でも一緒にいた女性の顔を見た悟空は、緊張の糸が切れた。
泣きじゃくる悟空を女性は抱き上げると、ふっと息を悟空に吹きかけた。



甘い仄かな香りの吐息。



一瞬泣きやんだ悟空は、女性の顔をきょとんと見た。
その顔にもう一度、吐息が触れた。



甘い眠気。



悟空は、ことんと、何の抵抗もなく眠りに落ちた。
眠った悟空を抱き直すと、女性はその場からかき消すように姿を消した。
















宿の主人に長安の寺院へ手紙を言付けた三蔵は、悟空の元へ急いだ。
だが、入り口の石段に座って居たはずの子供の姿はなかった。

「悟空?」

名前を呼びながら周囲を見渡しても、悟空の姿はどこにもなかった。

「どこ行きやがった」

舌打ちし、通りを歩く人並みに入る。
あれほど動くなと、言い置いておいたのに。
何か、興味を引くものを見つけたのかも知れなかった。
そんな時は、後先も考えずにそれに向かって一直線に向かって行く。
最近はそれが頻繁で、迷子になる確立が格段に上がっていた。
今回もそうだろうと、三蔵は思った。

見つからなくても、この聴こえ続けている声を辿ればすぐに悟空を探し出せると。

それは、油断。
それが、仇になった。




結局、町中をどこをどう探しても、悟空は見つからなかった。
声は聴こえ続けているというのに。
その場所を見つけられない。

見つけて、連れ出して以来、片時も側を離れたことのない悟空。
その悟空が居ない。
このことが意外なほど三蔵を不安にさせた。
沸き上がる予感に三蔵は、胸の辺りを無意識に掴む。
悟空が側にいない。
それだけでざわつく心に三蔵は、理由のわからない焦りを覚えた。



悟空…どこだ、どこにいる?



三蔵は胸を締め付けるどす黒い不安に、動くことさえ出来ずに通りに立ちつくしていた。




災いの手に落ちた。




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