旅の途中 (18)

結局、三蔵は眠ることなく朝を迎えた。
日が昇る寸前、うとうととしたが、あの声の持ち主が現れることはなかった。

三蔵は消えかけた焚き火の火をおこし直し、朝食の準備を始めた。

いつの間にか習慣になった仕事。
一人で旅をしている間は、食べないことの方が多かった。
なぜなら、 襲いかかる妖怪や野党に警戒しながらの旅は、心の安まるモノではなく、浅い眠りをとりながらの緊張の連続だった。
そんな睡眠さえろくに取れない中で、食事など摂る気すら起こらなかったのだ。

それが、悟空を拾ってからの旅は、街に着けば極力宿屋に泊まり、三食きちんと食べ、野党や妖怪に襲われる心配のない街道を歩いた。
野宿をしてもきちんと食事を摂り、悟空のたわいもない話を聞いてやりながら眠りにつく。
のんびりとした穏やかな旅。

危険な目にも遭ったが、それでも当てもなく奪われた経文の行方を尋ねて彷徨う旅ではなく、例え仮とはいえ戻るべき場所を目指しての旅は、三蔵の気持ちを穏やかにしていた。




「さんぞ、おはよ…」

まだ眠そうに、悟空が目を覚ました。
それに返事を返しながら、まだ眠っている崔岳を起こす。

「…もう…朝か…」

もぞもぞと大きなあくびをしながら崔岳も起きた。
悟空は眠そうにあくびを二度三度と繰り返す崔岳の姿を不思議そうに見つめた。
その視線に気が付いた崔岳が、にっと悟空に笑いかけた。
悟空ははっと、身を翻し、三蔵の背後に隠れた。

「何だ?」

簡易食を三つに分けていた三蔵が驚く。

「だって…」
「恥ずかしがる柄か?」

呆れた顔で三蔵が振り返れば、悟空は頬を膨らませていた。
その幼い姿に崔岳は、口元を綻ばせる。

「坊ず、俺は崔岳ってんだ、よろしくな」

自己紹介をすれば、悟空の膨れた顔が一瞬にして笑顔に変わった。
そのあまりに明るい笑顔に、今度は崔岳がびっくりする。

「俺、俺の名前は、悟空。孫悟空ってんだ」

先程の恥ずかしさはどこへやら。
悟空は三蔵の背中に抱きついた格好で自分の名前を告げる。
それに三蔵は煩そうに顔を顰めたが、抱きついた悟空を引きはがすことはしなかった。
















三蔵と悟空、そして崔岳は、連れだって長安を目指すこととなった。
珍しく悟空が警戒心もなく懐いたからに他ならない。
三蔵の警戒心はさして解かれてはいないのだけれど、嬉しそうな悟空の表情が三蔵の気分を穏やかにしていた。

「なあ、崔岳は長安に何しに行くんだ?」
「俺か?」
「うん」
「俺はな、長安に住んでる親戚を訪ねるんだ」
「しんせ、き?何、それ?」
「あぁ?」

悟空の言葉に崔岳が、怪訝な表情を見せた。

「何言ってんだ?」
「何って?」

悟空は崔岳が何にを不思議がってるのか、分からない。
前を歩く二人のやり取りを三蔵は黙って見つめていた。
と、悟空が振り返って三蔵に抱きついてきた。

「さんぞ、しんせきって何だ?食い物なのか?崔岳の説明じゃわかんねぇよ」

見上げてくる金眼に僅かな怒りと戸惑いをのせて、悟空は三蔵に答えを求める。
それに三蔵は小さく息を吐いて、悟空を自分から離した。

「親戚は食い物じゃねぇ。親戚って言うのは、親兄弟と血の繋がったヤツのことだ」
「親兄弟って?」
「お前を生んでくれたヤツのことを親、兄弟はその親からお前より先に生まれたヤツをそう呼び、お前より後に生まれたのを弟妹って言うんだ」
「ふうん…」

いまいち腑に落ちない顔をしていた悟空だったが、しばらく考える様子を見せたかと思うと、にこりと笑った。

「要するに…三蔵と俺みたいってことだよな」
「………」

その確信に満ちた言葉に三蔵はこめかみが疼き、崔岳は声を上げて笑った。
二人の様子に悟空はきょとんとした顔で、頭痛を堪える三蔵と笑いが止まらない崔岳の顔を交互に見つめていた。






「今日は俺の食事をごちそうするよ」

今夜の寝床に決めた場所に焚き火を囲んで座り込んだ三蔵と悟空に崔岳はそう言って、自分の荷物からリンゴ、乾し肉、パン、そしてソーセージなど、悟空が余り見たことのない食べ物を取り出して、三つに分けた。

「おっと…三蔵様は生臭はだめかな」
「いや、気にしなくていい」

訊けば、そんな答えがため息混じりに返ってきて、崔岳は少しびっくりした顔をした。

「本当に?」
「ああ…」
「とんだ三蔵法師様だな」
「ほっとけ…」

ぷいっとそっぽを向く三蔵の様子に崔額は、薄く笑った。

「なあ、もう食べてもいいのか?」

悟空が三蔵の袖を引く。
それに三蔵は頷いてやると、悟空は嬉しそうに崔岳が用意した夕食を食べ始めた。











三日月が登る時刻、三蔵は感じ慣れた気配に目を覚ました。

「おや、お気づきで」

からかいを含んだ声が三蔵の真向かいで聞こえた。

「今日は銃を構えないんですか?」

ひらりと三蔵の背後に舞い降りた気配。

「罪を犯した子供でも情けが移れば可愛いでしょう」

今度は眠っている悟空の傍らに気配が移動した。
気配を追うことに神経を研ぎ澄ましている三蔵は気付かない。
いつの間にか周囲が闇に閉ざされていることに。
悟空の姿だけがぼんやりと浮かび上がっていることに。

「本当に…こんな可愛い顔をして」

そろりと、気配が悟空の頬を撫でた。
その瞬間、三蔵の銃が火を噴いた。

「不意打ちとは卑怯ですねぇ…」

ひらりとかわしたはずの気配が、僅かに揺らいだ。

「本当に貴方は我を楽しませて下さる。でも、この子供は我が貰い受けます。そう、明日の晩、必ず…」
「そんなことはさせねぇ」

もう一度引き金を引こうとする三蔵の顔に、生暖かいと息を残して、気配は消えた。
完全に気配が消えたことを確認した三蔵は、全身の肌が粟立っていることに気が付き、唇を噛んだ。
銃を握ったまま、小刻みに震えだした身体に腕を回して自分の身体を自分で抱きしめる。

「…くそったれ…」

がちがちと歯の根が合わなくなった口を噛みしめて、三蔵は己に悪態を吐いたのだった。






膝を抱えて踞る三蔵の姿に、夜が明けてすぐ目覚めた崔岳は薄く笑いを零した。



頑張るねぇ…



消えかけた焚き火の火をおこしながら、崔岳は傍らで眠る悟空の顔を見つめた。

岩牢に幽閉されて五百年。
楽しかったことも辛かったことも、愛したことも愛されたことも、何もかも綺麗に拭い去られ、真っ白なまま、名前だけを携えて来た子供。
自分が犯した大罪も失った大切なこともその想いに影すら残さない。
金色の宝石を宿した子供。



お前は半身と出逢ったと言うことに、気付いているんだろうか……



出逢うべくして出逢った二人ではあるが、この金色を頂く人間が本当にこの子供の全てを背負うことが出来るのか。
共に歩いてゆくことが可能なのか。
魂の根底で引き合うこの存在達が、一体何をもたらすというのか。
あの時の二の舞を繰り返すのか、違う未来(さき)が見えるのか。



…楽しみだな



崔岳は瞳を眇めて眠る三蔵と悟空を交互に見やった。
そして、微かな痛みに眉を寄せ、左腕に出来た傷に視線を移した。
そこには銃弾がかすった様な傷が口を開いていた。

「腕、上げましたねぇ」

楽しそうに笑う口元が赤く染まる。
そして、崔岳はぬるりと腕を伝う血を舐め上げた。

「命を賭けて戦いましょうね、玄奘三蔵」

そう呟く崔岳の口元が、大きく切れ上がった。




長安まであと二日。




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