翌朝、三蔵は起き出した悟空の様子に改めて、頭痛を感じた。
帰ることや悟空の足腰の弱さ、感覚の鈍さにばかり気を取られ、悟空の風体にまで気が回らなかった。
そのことに遅まきながら三蔵は、気が付いたのだった。
考えてみれば、悟空を岩牢から連れ出して少なくとも四日、風呂に入れていない。
まして、いくら時間がどうかなっていた岩牢で風呂に入っているはずもなく、連れ出した当初は汚いとも思わなかった。
だが、今寝起きのぼうっとした悟空の姿は、埃にまみれてあかじみた衣類、手足は黒ずみ、背中まである髪は、もつれてつやもなく、浮浪児といっても差し支えがないほど汚かった。
ここにきてようやく宿を取る時、受付にいた従業員が変な顔をしていた理由に思い当たった。
三蔵は踵を返すと、部屋の浴室に駆け込み、浴槽に湯を張り始めた。
「起きたか?」
浴室の扉を閉めながら、寝台の上に身体を起こした悟空に声を掛ける。
悟空は、三蔵の声に嬉しそうに笑うと、頷いた。
「よし、朝飯までに、買い物に行く」
「買い物?買い物って、何?」
「一緒に来りゃわかる」
「ふーん」
悟空は小首をかしげて、三蔵を見返していた。
そんな仕草をしてみせる悟空に、少しほっとした。
あの捉え所の無いような無表情が、影を潜めていたから。
そして、三蔵の示す言葉や仕草、自分の回りにあるものに少しだが、興味を示すようになってきていたから。
それが、三蔵には嬉しいのだが、今は汚いこの悟空を何とかしたいのが本音だった。
「ちょっと待ってろ」
そう言い置いて、三蔵は浴室に戻ると、浴槽に張っていた湯を止めた。
そして、バタバタと出かける準備をすると、悟空の手を引いて宿屋を出た。
朝、といっても九時をまわった通りは、既に朝の買い物客で一杯だった。
その間を抜け、三蔵は一軒の服屋へ入っていった。
「いらっしゃいませ」
にこやかに店員が、応対に出てきて、その目を見張った。
三蔵の美貌と悟空の汚さに。
その取り合わせの奇妙さに。
「こいつの服を」
そう言って、三蔵が悟空を指さすのへ、店員は引きつった笑顔を浮かべながら、子供服の棚へ三蔵と悟空を案内した。
「こちらでございます」
「すまない」
三蔵は、そう言うと悟空を傍らに立たせて、洋服を選び出した。
何枚か悟空にあててみて、Tシャツを二、三枚とGパンを二本、上着を一着、下着を数枚、靴を一足、買いそろえた。
店員は、黙って精算し、洋服を包んでいたが、その視線は蔑みと好奇心に彩られ、三蔵を不愉快にした。
代金を払い、品物を受け取ると、三蔵はぼうっと立っている悟空の手を引きずるように店を出て、宿屋に戻った。
部屋の扉を閉め、ほっと息を吐く三蔵の様子を悟空は、何の感情も湧かないただ、澄んだ光を湛えた金の瞳で見つめていた。
「おい、来い」
買ってきた服を寝台に広げ、下着を揃えると、三蔵は上着を脱ぎ、アンダーシャツとGパン姿になった。
そして、突っ立ったままの悟空を呼ぶと、その手を掴んで浴室に入った。
「お前、その服脱いで、裸になれ」
「は…だか?」
「そうだ」
「何で?」
「風呂に入るんだよ」
「風呂?」
「ああ、風呂だよ」
「うん…」
訳がわからないと、顔に書いた悟空にこれ以上説明する気の失せた三蔵は、おもむろに悟空の服に手を掛けた。
「な、何?」
驚く悟空に構わず、三蔵ははぎ取るように悟空の服を脱がしてゆく。
あまりの驚きに悟空は抵抗するのも忘れて、三蔵に良いように裸に剥かれてしまった。
「よし」
三蔵も手早く裸になると、脱衣所から浴室に入った。
先程張ったお湯で、浴室の中はほのかに暖かい。
三蔵は、シャワーのコックを開けた。
勢いよく出るお湯に、悟空は驚いてとびすさる。
「逃げるな。こっち来い」
「で、でも…」
「大丈夫だ」
シャワーの湯を自分の身体にかけてみせ、悟空の足下に湯をかけてやった。
その感触に悟空は、不思議そうな顔をしていたが、害がないとでも思ったのか、三蔵の側に近づいてきた。
三蔵は、怖がらせないように悟空の足下から順にシャワーをかけてやりながら、椅子に座らせた。
「頭からかけるぞ」
「えっ?!」
返事を待たずに悟空の頭からシャワーをかけ、埃や汚れを大まかに洗い流し始めた。
悟空は、シャワーの湯の感触に最初、驚いて暴れたが、ゆるやかな湯の流れる感触が気に入ったのか、すぐに大人しくなった。
三蔵は、これ幸いと、湯でよく洗い流した後、シャンプーをつけ悟空の髪を洗い、石けんで身体を洗ってやった。
流れる水は最初泥のような茶色で、三蔵は悟空の肌が赤くなるまで擦って、髪は四回ほど洗った。
そして、悟空と一緒に湯船に浸かれば、悟空は上気して赤くなった顔を嬉しそうにほころばせたのだった。
「さんぞ、なんか気持ちいい」
「ああ、風呂だからな」
「そっか、これが風呂ってゆうのか。そーか、風呂ってなんか気持ちいいんだな」
無邪気に笑う悟空に頷いてやりながら、三蔵は今にものぼせそうだった。
それでも、悟空の笑顔にほっとする三蔵だった。
体を拭いて、髪を乾かし、ちゃんと綺麗な服を着せれば、悟空は見栄えのする容姿の持ち主だと言うことが知れた。
柔らかな大地色の髪、零れそうなほどに大きな黄金の瞳、バラ色のほほ、日に焼けていない白い肌と華奢な身体。
何より、儚げな印象が人目を引かずにはおれない雰囲気を悟空に与えていた。
半ばそんな悟空に見とれていた三蔵は、悟空が空腹を訴えたことで、我に返った。
「さんぞ、俺…お腹減ったみたい」
不安そうに訴える悟空に三蔵は、くしゃっと悟空の頭を撫でると、階下の食堂へ遅い朝食を取りに降りて行った。
空は晴れ渡り、暖かい風が春の盛りを歌い上げる。
その中を三蔵と悟空は、ゆっくりと旅していた。
宿を出たのは、昼食をすましてから。
別段急ぐ旅では無いことに思い至った三蔵は、悟空の歩調に合わせてゆっくり長安に帰ることに決めた。
どうせ帰ったら帰ったで、悟空のことについて寺院のジジイ共と一悶着起こさないわけにはいかない。
それならば、少しでも平穏なこの状況を楽しんでみても良いのではないかと思ったのだった。
金山寺を出て一人になって初めて、自分の意志で手に入れた存在の悟空との二人だけの時間を楽しみたいと思ったのだ。
様々なこと全てに鈍い悟空との時間を。
しかし、このまま寺院に連れて帰ってどうするのか、自分でも決めかねている三蔵だったが、悟空を自分の手元から放すつもりは欠片も無かった。
ただ、側に置きたい、その欲求だけが強くて。
その強さは三蔵自身、持て余していると言った方が正しいといえた。
理由のはっきりしない欲求は、いずれ形のはっきりした気持ちになるだろうが、今は悟空の感覚を取り戻すという行為を楽しむ三蔵だった。
何を話すわけでなく、二人は黙って街道を歩いていた。
時折、悟空は目に留まった物や人について聞いてきた。
質問の答えを三蔵から聞くと興味が失せるのか、また、何も言わず焦点のはっきり定まらない瞳をして、悟空は歩く。
三蔵もそれ以上話すことなく、黙って歩みを進める、それだけだった。
三蔵は、もともと寡黙な質だったので、無理に会話することが無い分、気は楽だったが、質問と答え以外の会話が成立しない不自然さは、感じていた。
とろとろと歩くうち、夕焼けが空を染め始めた。
次の街までまだ、来た道以上を歩かなければならない。
しかし、この歩みでは到底次の街にはたどり着けなかった。
何より、宿を出たのが遅い。
三蔵は、山の端にその片手を触れようとしている夕日を見て、野宿することに決めた。
野宿を決めると三蔵は、おもむろに悟空の手をとり、街道を逸れて近くの林の中に入っていった。
街道が木々の合間に見え隠れする程の所に、野宿にもってこいの空き地を見つけた。
三蔵はその空き地に荷物と悟空を置くと、枯れ枝を集め始めた。
悟空は夕闇の迫る空を見上げて、立ちつくしていた。
見上げる金の瞳は、夕焼けに染まり、瞳の表情を消し去ってしまう。
そこにあるのは、感情を持たない人形のような子供。
命すら持たない物のように、透明になって消えてしまいそうな子供。
悟空は、夕闇の衣を纏う空を三蔵が声を掛けるまで、ただ、ただ見上げていた。
「ほら」
焚き火に向かって並んで座る悟空に、旅行用の簡易食を手渡してやる。
悟空は黙って受け取ると、それにかじりついた。
その食べる様子は、悟空が空腹だったことを如実に表していたが、今朝のように空腹を訴えることが無かったことを三蔵は、思い出した。
「お前、腹が減ったら、腹が減ったと言え」
ため息と共に告げられた言葉に悟空は、何でと言う顔で三蔵を見返す。
「言わなきゃ、わかんねえんだよ」
もう一つ、簡易食を差し出しながらそう言ってやると、
「腹減ったって、言ってもいいの?」
と、聞き返してきた。
「ああ、ちゃんと言え。腹が減った、喉が渇いた、疲れた、眠たい、何でも感じたことはちゃんと俺に言え。いいな、わかったな」
噛んで含めるようにゆっくり告げてやれば、理解したのか、わかったと頷いた。
「よし。なら、それ喰ったらもう寝ろ」
「何で?」
「明日は、夜が明けたらすぐに出発するからだ」
「わかった」
言われるまま、悟空は食事を終えると、その場に横になった。
すぐに規則正しい寝息が、聞こえ始める。
「寝付きのイイ奴…」
それほどに疲れていると言うことだろう。
三蔵は、荷物から薄い掛布を出すと、悟空に掛けてやった。
それから少しして、三蔵も火の番をしながらうとうとと、眠ってしまった。
悟空に劣らず、三蔵も疲れていたのだった。
夜半、不意に目が覚めた。
じっと、夜の闇の向こうから見つめる気配に。
三蔵は、そっと懐に手を入れると、銃を握った。
気配の場所を探りながら、悟空に視線を移す。
悟空は、すやすやと安らかな寝息を立てていた。
「お気は変わりましたか?」
三蔵の耳元で声がした。
その声を振り払うように三蔵は、とびすさった。
「その子供、我にください」
ねだるような声が、すぐ横でする。
声のした方へ反射的に銃を撃った。
乾いた音が、辺りに木霊する。
「物騒ですねえ。その子供、くださいな。我が葬りましょうほどに」
後ろで声がする。
振り向きざま銃を撃てば、声は反対から聞こえてきた。
からかいを多分に含んだ声。
「荷が勝ち過ぎていると、忠告してあげてますのに、聞いてはくださらないとは」
「てめぇ、何処にいる?」
地を這うような声音で問う三蔵に、声は笑いを漏らす。
「さて、どこでしょう?」
「誰だ?てめぇ」
「誰でしょうねぇ」
声は三蔵を中心にあらゆる方向から返ってくる。
その為に気配が掴めず、方向感覚までおかしくなってくる。
三蔵は紫暗の瞳に殺気をのせて、声の主の位置を見つけようと躍起になった。
だが、声は気配を消し、三蔵の神経を逆なでする言葉を投げては、遠ざかることを繰り返すのだった。
「このっ…!」
三蔵の苛つきが頂点に達した時、悟空がタイミング悪く目を覚ました。
「…さんぞ?」
寝起きのはっきりしないぼうっとした声で三蔵を呼ぶ。
振り返れば、もぞもぞと起き出していた。
何で今、起きやがる
「さんぞ、何してるの?」
「何でもねぇ。まだ寝てろ」
苛つく声音で言えば、悟空の瞳が怯えの色を掃く。
「起きちゃいました?なら、我が」
声が言うなり、空気が鳴った。
その出所を確認するより早く三蔵は、銃を放っていた。
乾いた音の木霊の中に微かに手応えを感じた。
やったか?
思う間もなく、再び空気が鳴った。
その音に反射的にまた銃を撃つ。
だが、今度は手応えはなかった。
その代わりに呪詛に満ちた呟きが返った。
「お命もらい受けましょう。お忘れなさいますな」
感情のない声音と共に気配も消えた。
三蔵は、しばらく身構えたまま辺りを探っていたが、気配が完全に消えたと確認すると、警戒を解いた。
「大丈夫だった…か?」
銃を懐にしまいながら悟空の方を見た三蔵は、そこで固まってしまった。
そこには、血だらけの悟空がいた。
放たれた凶器は、悟空の身体を切り裂いていた。
肩口、脇腹、頬、二の腕。
ぱっくりと開いた傷口から止めどもなく、血が溢れ、Tシャツを赤く染めていた。
悟空は、自分の方を見たまま立ちつくす三蔵の様子に、怪訝な顔をすると呼んだ。
「さんぞ…さんぞ…?」
その声に三蔵は、我に返った。
「あ、ああ」
軽く頭を振ると、悟空の側に寄った。
「痛むか?」
傷を調べながら問えば、
「何が?」
と、返してくる。
「いや、いい」
吐きそうになるため息を飲み込んで、三蔵は悟空の傷の手当てを始めた。
荷物の中から応急手当用のキットを出し、傷口を覆ってゆく。
その作業をされるがままに受けながら、悟空は三蔵が何故、怒っているのか見当が付かずに戸惑っていた。
何も言わず、黙々と作業をする三蔵。
焚き火の炎に照らされる横顔は、怒っているのに見とれるほど綺麗で、包帯を巻くたびに頬に触れる金糸の髪の感触がくすぐったい。
悟空はもっと三蔵に触れたいと、思った。
この綺麗な金色の人に。
「取りあえずはいいだろう。おい、悟空」
手当を終えて、悟空を呼べば、悟空は魅入られたような瞳で自分を見返していた。
何だ?こいつ…
訝しい顔を見せれば、ついっと悟空は三蔵の髪に手を伸ばしてきた。
反射的にその手を振り払う。
その痛みにはっと我に返ったらしい悟空は、金の瞳を見開いて三蔵の顔を見上げた。
「あ」
小さく声を上げると、三蔵に振り払われた自分の手を抱き込み、うつむいてしまった。
悟空のその一連の訳のわからない動作に、三蔵も戸惑う。
掛ける言葉を探して逡巡する三蔵の耳に、悟空の小さな呟きが聞こえた。
「…ごめん…なさ……い」
何で謝る?
今度は三蔵の瞳が驚きに見開かれる。
黙ってうつむいた悟空を見ていれば、ぽたりぽたりと滴が掛布に落ちだした。
「何を泣くんだ?」
問えば、何も言わず首を振る。
このつかみ所のない子供に三蔵は諦めとやるせなさを感じた。
三蔵は大きなため息を吐くと、それ以上は何も言わず、荷物を片づけ、悟空に新しい服を出してやった。
「これを着たら寝ちまえ」
うつむいて声も立てずに泣く悟空の膝に服を置くと、三蔵は背中を向けて横になった。
微かな嗚咽は、明け方まで続いた。
結局、眠れないまま夜明けを迎え、夜明けを感じた時に訪れた睡魔に引き込まれ、慌てて目を開ければ、そこに誰もいなかった。
朝靄の中、悟空の姿は消えた。
長安はまだ遠い。