旅の途中 (20)

見上げた男の顔は、悟空の傍らで眠って居るはずの男の顔で、僅かな光に浮かぶ表情は獲物をいたぶる悦びに歪んでいた。

「お前は…」

それ以上言葉が続かない。

「びっくりなさいましたか」

くつくつと喉を鳴らすと、男は驚愕で身動きできない三蔵に馬乗りになった。
身体にかかった重みでようやく三蔵は我に返る。

「てめぇ…崔岳」
「ようやくお気づきで?」
「─…っ!」

にっと嗤った顔めがけて構えた銃は、三蔵の腕ごと地面に押し付けられた。

「良い機会ですから、少うし昔話をしましょう」
「勝手なことを!離しやがれ!」
「今から五百年と何百年か前のお話です」

何とか崔岳の下から抜け出そうと身を捩る三蔵の顔を見下ろしたまま、崔岳は話を続ける。

「東勝神州は傲来国、そこにそびえる花果山の山頂、その精髄たる仙岩から望月の綺麗な日、幼子が生まれました。幼子は大地母神がその愛情を一心に注いだこの世で唯一無二の存在。凶暴で純粋、残酷で綺麗な存在でした」

三蔵の瞳が見開かれる。

「幼子の誕生は天界で予測できなかった現象であり、その存在は予想外のモノでした。あまりに透明で綺麗で純粋。それは混沌の象徴と天界には映りました。けれど、幼子の力は強く、また、大地が、自然が愛し子を守り続けていました」

崔岳は三蔵の表情に楽しそうに瞳を細め、三蔵の顔を覗き込む。

「──綺麗だったんです。名前もなく、ただそこに愛されて存在した。誰のことかもうお気づきですよね」
「…だったら、何だ?」

崔岳の言葉に三蔵は彼の楽しそうな顔を睨みつける。

綺麗だった?
誰が?
五百年以上前に生まれた子供が?
自然に愛されていた子供が?

今は虚ろな心しかない子供が?
常に何かに怯えた影を背負う子供が?

何もかも諦めた光彩の黄金が?

そうさせたのは誰だ?
略奪したのは誰だ?

俺が見つけた子供ではない。
俺が手にした宝石ではない。

「何の関係がある!」

三蔵は僅かに動く左手に土を掴むと、それを崔岳の顔めがけて放った。
三蔵に顔を近づけていた崔岳の顔にそれは見事に命中した。

「──!!」

大した量ではなかったが、それは崔岳の目と口に入った。
痛みに崔岳の拘束が緩む。
三蔵は渾身の力を込めて崔岳を蹴り飛ばすと、起き上がるなり、引き金を引いた。
だが、狙いは僅かに外れ、崔岳の肩を掠っただけだった。

「…おのれ」

蹴り飛ばされ、地面を崔岳は不様に転がった。
起き上がりかけた所を撃たれた崔岳は口に入った土を吐き出し、目に入った土を拭って銃を構えた三蔵を睨み据える。
そこに先程までのどこか楽しんでいた余裕が抜け落ちていた。

「本性を出すか?」

三蔵が嘲る。

「本性?何です?それは」
「お前の正体」

言うなり、三蔵の銃が火を噴く。

「我は我。大地母神が愛し子であり、咎人の子供を天界から預かった者」

まるで蜥蜴かクモのように手足を付いて、崔岳は四足歩行動物のように弾丸を避ける。

「抜かせ!」

走る崔岳の姿を三蔵の放つ銃弾が追う。
だが、どの銃弾も小さな土煙や木々の幹を擦るだけで当たらない。

「我はあの子供が可愛いんですよ。罪に汚れて、血に濡れたあの子がね」
「ならば何故、殺そうとする?」

地を蹴って崔岳の身体が宙を舞い、三蔵の肩先を掠めて着地する。
肩を抉ろうとした爪が法衣を裂いた。

「岩牢を許可無く抜け出した罰」
「違う!あれは俺が連れ出した」
「だからあなたから返して貰うのですよ、三蔵法師様。この命懸けの戦いで」

くつくつと喉を鳴らし、崔岳は長い舌で唇を舐め、にたりと笑った。
















バラバラと弾倉の空薬莢が落ちる。
気配が消えた崔岳を探しながら、三蔵は新しい弾丸を込める。

風が、微かな風が三蔵の頬を撫でた。
それに混じる針先ほどの殺気。

隠れていた木の陰から三蔵は前へ倒れ込むように転がり出た。
その後に鈍い音を立てて突き刺さる崔岳の手刀。

「息が上がってきましたねぇ」

地面に刺さった手刀を引き抜き、崔岳は大きく腕を振る。

「そろそろ限界ですか?」

にいっと、吊り上がった紅い口元に三蔵はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。

「早くあなたを仕留めて、あの子を頂いて帰って、始末を付けなければ」

ついと焚き火の傍で眠る悟空を崔岳は指さした。
その指先に誘われるように三蔵の視線が悟空の寝顔に動く。

そして、気付いた。

あれほどの戦いを繰り広げている最中、一度も目を覚まさないことに。
焚き火の火が小さくなっていないことに。

「…てめぇ、何をした?」

渇いた音を立てて三蔵の銃が崔岳の額に定まる。

「ようやく、お気づきで。いえね、起きてあなたがどうにかなるのを見ていてもらっても良いんですが、そうすると色々ややこしい事になりそうで。それに、あなたも戦いづらいかとちょっと細工をさせて頂いたんですよ。なに、決着が付けば解けますからご心配には及びません」

にたりと、今頃気付いたのか、と言わんばかりに嘲りの色を載せて崔岳は笑った。
その瞬間、三蔵の銃が狙い違わず崔岳の眉間を撃ち抜く。

「危ないですねえ。髪、焦げちゃったじゃないですか」

確かに撃ち抜いたと見えた弾丸は寸での所でかわされたのだ。
それでも、僅かに掠ったようで離れて対峙した崔岳の額を一筋の血が流れていた。

「そろそろ決着を付けましょうか」

流れて口元に来た血をべろりと舐め、崔岳はすっと身体を落とした。

「決着を付ける前にもう一度、お伺いします」

崔岳の変化に合わせて三蔵も身構える。

「何を訊きたい?」
「あの子供の事ですよ」

じりっと、隙を窺うように崔岳の身体が地面とほぼ並行に平たくなる。
三蔵は間合いを計るように足の位置を少しずつ変える。

「あなたにとってあの子供はどんな存在なんでしょう?」
「ただの大食らいのガキだよ」

銃口は崔岳の眉間を狙ったまま動かない。

「大罪を犯し、血まみれの手をした子供ですよ?」
「だから、何だ?関係ねぇ」

崔岳の瞳が眇められる。

「罰を受けて岩牢に入れられていたんですよ?」
「それ以上に本来の姿を奪って何もかも諦めさせたじゃねぇか」
「それほどの大罪を犯したんですよ、あの子供は」
「俺には関係ねぇ」

三蔵の言葉に崔岳の口元が僅かに歪む。

「災いしかあなたにもたらさないのに?」
「そんなもの、何ほどのもんでもねぇな」
「強がりですか?」
「気にしねぇってんだよ」

三蔵の口元が楽しそうに綻ぶ。

「それに、アイツといると退屈しねえんだよ」

言葉と同時に引き金が引かれた。
着弾は崔岳の顎の下。
細かな砂が散る。

「惜しいですねぇ。眉間はここですよ」

くつくつと自分の眉間を指さして崔岳が笑う。

「そして、意地をはることはないんです。あなたにとってあの子は邪魔なだけでしょう?」
「意地なんかねぇよ」

忌々しそうに舌打つと、三蔵は深く息を吐いた。
それと共に三蔵の身体から余分な力が抜けて行く。
次が最後だと、その姿が崔岳に告げていた。

「では、どうあっても我にくださいませんので?」
「ああ」
「その脆弱な身体と心で、あの子供を受け止めると?」
「ああ」
「二言は?」
「ねぇ」

お互いの言葉が終わらない内に、崔岳が走り、三蔵の銃が長い銃声の尾を引いた。




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