旅の途中 (4)

三蔵は、怒っていた。

無性に腹が立って仕方なかった。
理由もなく姿を隠した悟空に。



一体なんだというのだろう。
泣くようなことをあいつはしたのだろうか?
泣くほどのことをあいつにしたのだろうか?
見当もつかなかった。


人の心を推し量る───そんなこと、今までする気にもならなかった。


相手を思って起こした行動が、何度自分を傷つけ、踏みにじられてきたことか。
師匠が生きていた時は、大切な師匠のために何かをしたくて、喜んでもらえるのならと気を働かせていた。
だが、その師匠を目の前で殺された時、寺の人間がまだ幼い三蔵に投げた言葉は、三蔵の傷を抉っても、塞ぐことは無く、人の気持ちなど考えて放たれてはいなかった。
それ以来、三蔵は気働きを止めた。


何事も自分を中心に置いて考える。


自分の気持ちが平穏であるためには、どうすればいいか。
やがてそれは、三蔵の生き方となった。

信じられるのは自分自身。
自分の目で見て、自分の心で感じる。
それが全て。

そうやって生きてきた。


だが、あの日、三蔵の心の飢えた部分をまっすぐに突き刺した声の主は、自分の心を推し量ることを要求する。

少ない言葉の中に。
怯えた表情の中に。
流す涙に、その心を理解してくれと要求する。

会ってまだ、たった五日やそこらで何をどうしろというのだろう。
質問にも答えず、名前以外は何もわからない相手に。
諦めを全身に纏い、拒絶するそんな奴を相手にどうしろというのだ。

訳のわからない、正体すらはっきりしない声だけの奴を相手に、戦いたくもない戦闘を夜中にさせられた。
奴の狙いは、悟空。
守る義理も責任もないが、傷つけられても抵抗もせず、避けることもしない。
果ては、その身体に傷を負っても、痛みすら感じない。
そんな奴をどう扱えばいい。

手当をしている自分を魅入られたような、怪しげな瞳で見ていたかと思うと、泣き出す。
鬱陶しくて構ってやらなければ、こうやって姿を隠してしまう。
自分はどうすれば良かったと、言うのだろう。

そのくせ、声はこうして聴こえてくる。

三蔵を呼んでいる。

だから、腹が立った。
腹が立つ。



三蔵は、たたみかけた掛布を地面に叩き付けると、イライラと煙草に火を付けた。






悟空は、野宿した場所からさほど遠く無い林の奥に座り込んでいた。


目の前に焚き火の炎に光る金色があった。
触れてみたいと思った。
でも、その金色は目の前に、とても近くにあるのに、とても遠くて、手は届かなかった。
それが、悲しくて。
それが、切なくて。
涙が、溢れた。



暗い岩牢から見る外の世界は、眩しくて、明るくて、暖かだった。

突然、目の前に現れた金色のあの人は、そのどれよりも眩しくて、綺麗だった。

伸ばされた手にすがりつけば、外に出ていた。
あまりの眩しさに踞り、次に顔を上げた時にも、金色のあの人は側に居た。

求めても、求めても与えられなかった外の世界。
太陽の光。
それを与えてくれた金色のあの人───三蔵。

側に居たいと思った。
この胸の内にある大きな黒い喪失を埋めて余りある存在の側に。

許してくれているのだと、求めるなと警告する心に反して、信じた。
だが、もたらされたのは、拒絶。

振り払われた手が、自分を見やった紫の冷たい光が、悟空の希望を打ち砕いた。

それでも心は、あの金色を求め続けている。
側に居られないと、わかっていても尚・・・・。

声も立てず、ただ涙を流し続ける悟空がそこにいた。


───三蔵……






くすぶる焚き火に吸い殻を投げ入れ、三蔵は重い腰を上げた。

夜が明けて、ずいぶん経つ。
太陽はその高度を上げ、林の奥までその光を投げかけていた。
常緑樹の葉が、ちろちろと木陰を作り、芽吹いたばかりの木々は、その影を地面に落とす。
まだ枯れた下草を踏みしめ、三蔵は悟空を探して林の奥へ入っていった。




小一時間も歩いただろうか、木々の切れ目に悟空の小さな影を見つけた。
足音を忍ばせて近づけば、悟空は地面にぺたんと膝を割り開いて座り、惚けた顔で涙を流し続けていた。


その姿は痛々しく、惚けた顔の見開かれた瞳には何の感情も表れてはいjなかった。


三蔵は悟空の正面に立つと、酷く不機嫌な声音で声を掛けた。
だが、悟空の反応はなく、三蔵のため息を呼んだ。

何度か名前を呼んだが、反応はない。
これでは、この間の宿屋での繰り返しではないか。
眉間に思わず寄る皺と共にその表情を険しくしながら、三蔵は悟空の肩を掴むと乱暴に揺すった。

「悟空!」

荒々しく名を呼ぶ三蔵の声と、力任せに揺さぶられる身体の振動に悟空の瞳に、ようやく光が戻った。
焦点が三蔵の顔に合うと、悟空は酷く怯えて、身体を竦ませた。
その様子が三蔵の不機嫌のパーセンテージを上げてゆく。

「てめぇ、いい加減にしやがれ」

怒気をふんだんに含んだ声に、悟空は益々すくみ上がり、追いつめられた小動物のような瞳を三蔵に向ける。

「言いたい事があるなら、はっきり口に出して言えと、昨日の晩言っただろうが」

睨みつける紫暗の清冽な輝きに悟空は、釘付けになる。

「何が気に入らねえのか、俺にどうして欲しいのか、てめえがどうしたいのか、はっきり口に出せって言ってんだよ」

突き放すように悟空の身体を離せば、反射的に悟空は三蔵の法衣を掴んでいた。
その仕草に三蔵が驚いた顔をする。
法衣を握りしめた手に白くなるほど力を入れて、悟空はろくに自覚のないまま言葉を発していた。

「側に居たい。側に居たいの。居させて、居させてよぉ。側に居たいよぉ…居たいよぉ」

最後は泣き声に変わって、それでも悟空は「側に居たいと」言い続けることを止めなかった。
三蔵は、法衣を握りしめ、壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す悟空の様子をしばらく瞳を見開いたまま見つめていた。

涙を流しながら、舌足らずな口調で側に居たいと泣く声に、我に返った三蔵は悟空を思わず抱きしめていた。

「わかった。もうわかったから…泣くな」
「……側に…居たいよぉ…さんぞの側に…」
「ああ、側に居ろ。お前が居たいだけ、側に居たらいい。だからもう泣くな。泣くな、悟空」
「さんぞぉ………」

抱きしめられた三蔵の胸から直接聞こえる許しの言葉に、悟空は声を上げて泣き出した。
何かを洗い流すようなその泣き声に、三蔵はついさっきまで心を占めていた怒りが消えていることに気が付いた。
変わりに心に満ちてくるのは、愛しいと思う気持ち。
離したくないと思う気持ち。
離さないと思う気持ち。

一昨日、声だけのあいつの言葉に対抗するように思い誓った、”離さない”というものと今、悟空の小さな身体をこの腕に抱いて思う”離さない”とは天と地と程の差があった。



誰にも渡さない。
この幼い存在は、自分のもの。
何人にも手出しはさせない。

三蔵にとって初めての執着だった。



旅は、始まったばかり。




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