少し笑うようになった。
表情が少し豊かになった。
それはまだ翳りを帯びてはいたけれども、悟空の気持ちに変化が表れた証のように思えた。



旅の途中 (5)
旅の速度は変わらずに遅く、長安までの道のりの半分も消化していなかった。
辿る道に咲く花に、空を飛ぶ鳥に、雲に、行き交う人に興味を引かれ、立ち止まっては触れ、確かめる悟空の所為だった。
そんな悟空に三蔵は忍耐の許す限り付き合った。
突き放せば、危ういバランスの上に立っているだろう悟空がまた壊れそうで、そんな悟空を見たくないと、何処かで三蔵は臆病になっているからかも知れなかった。




「さんぞ、あの黄色い花…えっと、タンポポ!タンポポがあんなに咲いてる」

腕を引かれて悟空の指さす方を見れば、街道から一段低くなった荒れ地一面にタンポポが咲いて、広大な花畑をなしていた。
思わず目を奪われる金色の花の海。
それはまるで腕を引いてはしゃぐこの子供の明るい瞳の色のようで、三蔵は紫暗の瞳を眩しそうに眇めるのだった。

「な、行ってみよう」

三蔵の返事も待たず悟空は掴んでいた手を離すと、一目散にタンポポの花畑目指して走り出した。

「…おい、悟空!」

慌てて三蔵も走り出す。
前を走る小さな影は、タンポポの海にダイブするように倒れ込む。

「気持ちいい!」

タンポポにまみれて笑う姿に三蔵は、呆れたため息を吐く。
今夜、宿泊予定の街までまだ半日以上はあるが、このまま行けばまた野宿になりそうだった。
いい加減、柔らかい寝台で眠りたいのが本音だったが、悟空の好奇心を満たしてやることが意外に面白く、楽しいのも事実で、三蔵は身体は疲れていたが、気持ちは満ち足りていた。

しばらくタンポポの花畑の入り口で花の中を転げ回ってはしゃいでいた悟空を見るともなしに見ていた三蔵は、悟空に近づく人影を見つけた。


誰だ…?


それは、二十歳過ぎの銀色の髪をした背の高い青年だった。
青年は悟空のすぐ側まで近寄ると、声を掛けた。
が、その声に悟空は酷く驚いたらしく、飛び起きると一目散に三蔵の所へ戻って来た。

「さんぞ!!」

飛びついてくる悟空の身体を受けとめながら、三蔵は自分達の方へ近づいてくる青年を見つめた。
青年は、苦笑を浮かべながら片手を上げて挨拶をよこした。

「やあ、こんにちは」

屈託のない声で、自分を睨みつけるようにして立つ三蔵に笑いかける。

「その子、可愛いねぇ。名前、なんて言うの?」

三蔵の後ろに隠れるようにしている悟空の顔を覗き込んで、青年が訊ねる。

「怖がらないでよ。何にもしないって。ね」

両手を上げて敵意がないことを二人に見せるが、三蔵も悟空も緊張したまま、気を抜く気配はない。
青年は困った顔をすると、小さくため息をついた。

「突然、声を掛けたから驚かしちゃったんだ。ごめんね。僕は、蓬瑛っていうんだ。よろしく」

にこっと、人の良い笑顔を見せ、握手を求めるように片手を差し出した。
その片手と蓬瑛と名乗った青年の顔を見比べたあと、三蔵は何も言わず悟空の手を掴むと踵を返した。

「あら、恥ずかしがり屋なんだ」

ちょっと驚いたような、多分にからかいを含んだ声が三蔵の背中を打ったが、三蔵は振り向きもせず、悟空を連れて街道へ戻って行った。
その後ろ姿を見送る蓬瑛の口元には、新しいおもちゃを見つけた子供のような笑いが浮かんでいた。






「……さんぞ、あいつ…あいつ、恐かった…」

タンポポの花畑からずいぶん離れてから、ぽつりと法衣を握りしめて悟空は呟いた。

「何?」

思わず聞き逃しそうになるほどの小さな呟きに、三蔵は悟空を振り返った。
見れば小さな肩を震わせて、泣くのをこらえている。
三蔵は立ち止まると、悟空と視線を合わせた。

「あいつって、さっきの銀の髪をした馴れ馴れしい奴のことか?」

問いかければ、泣きそうな顔で頷く。

「な、なんかよくわかんないけど、あいつ、恐いよ。あいつが側に来たら胸が、ぎゅってして恐いんだ…恐い……」

言いながら耐えきれず、悟空は涙を零した。
確かに、蓬瑛と名乗った青年が側に来ただけで、全身を悪寒が走った。
害のないただの馴れ馴れしい奴として片づけるには、悟空の様子は尋常とは言えず、三蔵は、泣き出した悟空を緩く抱き込んで宥めながら花畑の方を見つめていた。




夕暮れの空を見ながら、三蔵は野宿できそうな場所を探していた。
街道を少し外れた辺りに手頃な空き地はないものかときょろきょろしていると、荷馬車が止まった。
何事かと、馬車を見れば昼間であった蓬瑛が、荷台から手を振っていた。
悟空は三蔵の後ろにしがみつくようにして隠れて、震えている。

「やあ、また会ったね。街はもう少しだよ。ねえ、一緒に乗っていかない?そんなペースで歩いていたら街には着けないし、野宿になっちゃうよ」
「行ってくれ。俺たちは歩いていく」
「つれないこと言わないでさ。旅は道連れって、言うじゃない。だから、ほら」

そう言って、三蔵の腕を馬車から身を乗り出して掴んだ。
掴まれた手を三蔵は、振り払った。
その力の強さに蓬瑛は、びっくりして手を引っ込めた。

「触るな。俺たちに構うな」

低い声音で三蔵はそう言い、蓬瑛を睨みつけた。

「怒らしちゃった?なら、ごめんね。でも、僕は君たちと友達になりたいんだ。だから、一緒に行こうよ」

睨む三蔵を気にもとめず、にこにこと蓬瑛は馬車に三蔵と悟空を誘う。

「行くぞ」

それを無視して、三蔵は背後の悟空に声を掛けると、歩き出した。
その背中に蓬瑛は、次の街で待っていると大きな声で告げると、馬車を走らせ、三蔵達を追い抜いて行った。

「綺麗な子だったな。兄さんの知り合いかい?」

御者台の男が、蓬瑛に訊ねた。

「まあね」

そう答える蓬瑛の口元は、楽しそうに笑っていた。






集めた薪に火を付けて、ほっと一息を付く。
悟空は、三蔵に身体を密着させて座っている。
が、時折、街道の方へ視線を投げては誰も来ないことを確認していた。

「何が、そんなに恐い?」

夕食の携帯食料を分けながら、三蔵は悟空に問うた。

「…わかんない。でも…あいつに近づくと良くない事が起こるような気がして…また…一人になるような…そんな気がして……」

ぎゅっと、三蔵の法衣を握りしめ、顔をすりつけてくる。

「そうか…」
「うん…」

三蔵は悟空の頭を軽く撫でると、分けた食料を渡してやった。
それを受け取っても悟空は食べようとせず、不安に染まった瞳を三蔵に向けていた。

「何にも起こりゃしねぇ。安心して食え。心配ならあいつの居る街を迂回してやる」

だから、大丈夫だと、頷いてやった。
それでも不安は完全に拭いきれてはいないようだったが、食事をする気にはなったらしく、携帯食を食べ始めた。




夜中、また不意に三蔵は目が覚めた。
隣を見れば、悟空は安らかに眠っている。
三蔵は、身体を起こし、火の衰えた焚き火に小枝を足した。
その所為で少し火の勢いの増した焚き火を見つめて、再び眠りにつこうかと横になりかけた三蔵の耳に、またあの声が聞こえた。

「その子供、災いを呼びましたよ」

三蔵は横になりかけた身体を静かに起こしながら、懐から銃を取り出し身構えた。

「お気を付けなさい。災いは子供を壊しにきますよ。あなたが、我に子供を下さらないからですよ」

声の位置を探るが、今夜は声の主の気配を全く捉えることが出来ない。

「先日は鉛の弾を頂きました。災いが来ていますので、それが去ってからお命、頂戴致しましょう。では、また」

楽しそうに喉を鳴らして声は笑いながら、消えた。
三蔵はしばらく、息を殺して気配を伺っていたが、林のざわめきが戻って来た音に緊張を解いた。

最初に聞こえた頃より、声は凄みを増していた。
三蔵を緩やかに締め上げるような殺気を放っている。
危険が、形をなして三蔵と悟空に迫ってきているようだった。

何が来ても、どんな事が起こっても、悟空を傷つけさせはしない。

やっと、笑うようになったのだ。
まだまだ、欠けたものは取り戻せてないけれども、それを忘れさせるような笑顔を時折、見せるようになったのだ。

その笑顔を三蔵は、もっと見たいと思った。
その笑顔を消したくないと、思った。

だから、誰にも渡さない。




戦いが、始まる。




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