恐い夢を見た。
目が覚めたら三蔵が居なくて、一人置き去りにされてる夢。
あの暗い岩牢に居る時には、絶対に見なかった夢。
一人だったから。
誰も側に居なかったから。
でも今は一人じゃないから、三蔵が側に居るから見る夢。
失いたくないから。
一人になりたくないから。
だから───
治まってきた胸の動悸に胸を掴んでいた手を離して、隣の寝台に眠る三蔵の様子を窺った。
しかし、三蔵の起きた気配はなく、静かな寝息が聞こえてくるだけだった。
悟空はそろそろと身体を起こし、寝台から降りると、三蔵の側に近づいた。
寝台の枕元に置かれた常夜灯のオレンジの光が、三蔵の髪を柔らかな金色に染めている。
その寝顔は起きている時の大人びた印象はない。
悟空はじっと、その寝顔を息を殺して見つめていた。
───生きてる。ちゃんと…息してる
緩やかに上下する三蔵の胸にほっと安心すると、悟空は寝台に戻って横になった。
ごそごそと動いて落ち着くと、やがて眠りについた。
悟空の規則正しい寝息が聞こえて、三蔵は目を開けた。
───何やってやがんだ?
肘を付いて身体を起こし、自分の方を向いて眠る悟空の寝顔をため息混じりで見やれば、常夜灯の柔らかい光に浮かぶ幼い頬に涙のあとを見つけた。
───また、泣いたのか……
あの泣いた日、悟空の中で何かが吹っ切れたのだろう。
次の日から少しずつ悟空は目に触れるものに興味を示し始めた。
その好奇心の発露に、三蔵は面倒臭く思いながらもどこかで安堵を覚えていた。
ゆっくりっと辿る長安への旅路は、煩わしいことも面倒臭いこともあったが、悟空のもたらす純粋な好奇心と信頼は、三蔵に心の平安と楽しみを与えていた。
そう、蓬瑛と名乗る男が現れるまでは。
調子のいい奴。
馴れ馴れしい奴。
その男に悟空は酷く怯えた。
それまで興味の引くものに出会えば三蔵が止める暇もなく掛けより、街では迷子になったり、離れすぎて不安になって泣いたりと騒がしいことこの上なかった。
それが、三蔵の側を離れてもその姿がちゃんと見える所までしか行かなくなった。
何より夜、うなされるようになった。
どんな夢を見てうなされているのか、三蔵に知る術はなく、ただそれ以上うなされないように悟空を揺り起こすことしか出来なかった。
何がこれほど悟空を怯えさせるのか。
せっかく笑うようになったというのに。
三蔵は仰向けに寝返ると、それから寝ることが出来ず、そのまま朝を迎えた。
足りないものを買い足し、悟空にねだられるまま菓子を買い、三蔵と悟空は街をあとにした。
二人が街の門をくぐり、街道へと向かう姿を物陰から見つめる人間が居た。
その人間は口元に嬉しそうな笑いを張り付かせていたが、その目は笑ってはいなかった。
「なあ、あの人は何してんだ?」
「ああ?」
指さす方を見れば、畑で種を蒔く百姓の姿が見えた。
「畑に種を蒔いてんだよ」
「何の?」
「知らねえ」
「訊いてくる」
「おい、悟空!」
止める間もなく、悟空は畑で種を蒔く百姓の側に駆け寄って行った。
三蔵は、軽い頭痛を覚えた。
こめかみを押さえて様子を見ていれば、悟空の突然の問いかけにその百姓は驚いた様子だったが、人なつっこい笑顔で問いかける悟空に訊かれるまま、答えを与えていた。
しばらく話して気が済んだのか、悟空は三蔵の元へ戻ってくると、嬉しそうに報告した。
「あのな、豆の種を蒔いてんだって。秋になったらたくさん穫れるんだって。んで、あの横の草は、ナスとキュウリだってさ。夏においしい実がなるんだって」
報告するその笑顔に昨夜の翳りはない。
三蔵は頷きながら、そっと息を吐いた。
「行くぞ」
「うん」
先へ促す三蔵に返事をして、その腕に抱きつく。
「抱きつくな」
「ヤだもん」
スリスリと顔を三蔵の法衣にすりつけて、くすくす笑う悟空に軽いため息を吐くことで許し、三蔵は歩き出した。
まとわりつくように二人の側に現れていた蓬瑛が、姿を見せなくなった。
単なる物好きだったのか。
そう思えてしまうほどあっけなく、蓬瑛は姿を見せなくなった。
それで悟空の様子が落ち着いたかと言えば、それは逆だった。
夜中、寝汗をびっしょりかいて飛び起きる回数が増えたからだ。
どんな夢を見たのか問いつめても、何も覚えていないの一点張りで、明らかに何かを三蔵に隠していることはその態度から明白だった。
にもかかわらず、答えを引き出すことは叶わなかった。
苛ついて当たれば、怯えきった金色の瞳が返され、嗚咽をこらえる姿を見る羽目になる。
お陰で三蔵も寝不足になって、機嫌は下降線の一途を辿っていた。
三蔵の機嫌の悪さを悟空は敏感に悟って、様子を窺う瞳を向けてくる。
その瞳はさらに三蔵の不機嫌を煽るとも知らずに。
その日は、次の街までの距離が長く、街道はずれの森の入り口で野宿となった。
イライラと煙草をくわえながら、それでも三蔵は悟空の世話をやめなかった。
その仕草はつっけんどんであったけれど、見捨てられるかもしれないと怯えた悟空にはそれだけでも安心できるものだった。
携帯食を食べ終え、焚き火に向いて横になった悟空が、小さな声で呟いた。
「置いて……行かないでね」
煙草を焚き火に投げ入れて、横になりかけた三蔵の動きが止まった。
訝しげな視線を悟空に向ける。
その視線を感じて、うつむいていた顔を悟空は上げた。
三蔵の紫暗の瞳に焚き火の炎が映って、柔らかな光を湛えて自分を見返していた。
───きれい……
一瞬、見惚れ、悟空は笑顔を浮かべた。
その儚さに三蔵は、瞳を見開いた。
「…一人にしないでね。あそこへ戻さないでね」
「………」
瞳を見開いたまま何も答えない三蔵に悟空は、もう一度笑顔を向け、
「おやすみ」
そう言って、目を閉じた。
焚き火の炎に反射する金色の瞳は透明で、その底に見える不安に三蔵は胸が騒いだ。
何だ?
ざわざわと騒ぐ胸に三蔵もまた不安を感じた。
失くすのか?
何を?
悟空を?
頭をもたげた不安は、三蔵の心を黒く染めて行く。
悟空のうなされる原因が分からない、話してくれない、そんな理由で苛ついて八つ当たりしていた先ほどまでの自分が酷く小さく感じられて、三蔵は唇をかんだ。
この幼い身体と心に一体何を抱え込んで居るというのだろう。
あの暗く、訪れるモノもなく、忘れ去られた岩牢で何年も何年も一人で過ごしていた。
世界の移ろいから取り残され、打ち捨てられていた幼子。
この今も胸に響く声は自分を呼び続けて、止むことはない。
煩いと、煩わしいと、どうして自分なのか、人のことなどどうでも良かったはずの自分を・・・だ。
眠る直前に見せた悟空の儚い笑顔に三蔵は、言い知れない胸騒ぎを感じた。
それはすぐに現実となって、三蔵にもたらされた。
影は、音もなく舞い降りた。