旅の途中 (9)

三蔵と悟空が真紹に助けられて、五日が経った。



三蔵が起きて自分を見ている、そのことに金色の瞳を零れんばかりに見開き、三蔵に名前を呼ばれた途端、声を上げて悟空は泣いた。
そのあまりに見事な泣きっぷりに真紹はびっくりし、三蔵は頭を抱えた。
しかし、芽生えだした感情が元に戻っていない悟空の姿に三蔵は、頭を抱えるその影で安堵の吐息を吐いた。
そんな三蔵の気持ちをよそに、悟空は見ている二人が呆れるほどの時間泣き続け、糸の切れた人形のように倒れ込むと、そのまま眠ってしまった。

その泣き濡れた寝顔を真紹は見つめたまま、三蔵に訊いた。

「おい、どうなってるんだ?」
「…知るか」

答える三蔵の呆れ果てた声に真紹は一瞬、ぽかんとした顔をしたかと思うと、盛大に笑い出した。
涙を流すほど笑う真紹に三蔵は、悟空とは違う頭痛を感じ、深いため息を吐いた。



それが、二日前。



熱も下がり、身体を起こして居られるようになった三蔵の世話をする悟空の姿があった。

「さんぞ、ご飯持ってきた」

危なっかしい足取りと手つきで、真紹の妻が作った粥を悟空は、運んできた。
そっと、寝台の横の小机に置く。

「すぐよそってあげるな」

黙って悟空のすることを三蔵は眺めながら、悟空の様子に気を張っていた。
だが、そんな三蔵の心配が杞憂に思えるほど悟空は明るく、真紹とその妻に懐いていた。




三蔵と悟空を助けた真紹という男は、三十過ぎの恰幅のいい男で、職業は偶然にも医者だった。
家族は妻だけで、子供はなかった。
真紹はいたって豪快で、細かいことに拘ることもなく、三蔵と悟空の素性について詮索することもなかった。
妻の幸藍も三蔵と悟空のことを詮索することもなく、可愛い、可愛いと悟空を甘やかしていた。
別に三蔵が、三蔵法師だと真紹に知れたからと言ってなんら支障は無いだろうが、悟空の素性が知られるのはいささかの抵抗を感じた。
真紹が妖怪の子供だからと言って、悟空を邪険に扱うとも思えないのだが。
言わなくてすむことならあえて口にする必要もないだろうと、三蔵は自分達の素性について黙りを決め込んでいた。




「さんぞ、はい」

目の前に差し出された茶碗を悟空から受け取った三蔵は、そのあまりの熱さに思わず、茶碗を取り落とした。

「ぁ、っつ…」
「どうしたの?」

熱さに茶碗を取り落とし、赤くなった指先を見つめる三蔵を悟空は不思議そうに見つめていた。

「ご飯、いらなかった?」

掛布の上に落とした茶碗を拾いながら悟空は、小首を傾げて訊いてくる。

「熱いんだよ」

と、言えば、

「熱い…って?」

と、返ってきた。

「わからねえのか?」
「…ん…」

考え込むような顔をする。

「お前、この間は俺の身体が熱いって、言ったじゃねえか」
「言った?覚えてない…けど?」

戸惑った顔と声の返事が返ってくる。

「…マジか…よ」
「えっ、何が?」

三蔵の呟きを耳にして、悟空は三蔵の顔を覗き込む。

「いや…それよりお前、手を見せろ」

掛布の上に付いていた悟空の左手を掴んで手のひらを見れば、赤くなって少し熱を持っていた。

「その手、すぐ水で冷やしてこい」
「何で?」
「何ででもいいから、さっさと行ってこい」
「わ、わかった」

三蔵の剣幕に押されるように悟空は、部屋を飛び出していった。
部屋の戸口で慌てて駆けだして行く悟空を認めて、真紹は「何だ?」と三蔵に目で問うた。

「火傷。後で診てやってくれ」
「火傷?」

真紹は包帯や傷薬の入ったカゴを寝台に置くと、掛布の上に零れたままの粥に気が付いた。

「粥、零したのか?」
「ああ」
「ちょっと待て」

そう言って、寝台の足下にある引き出しからタオルを出すと、零れた粥をふき取った。
そして、三蔵に寝間着を脱ぐように促すと、包帯の交換を始めた。

「だいたいふさがってきたな。もう二、三日すれば歩けるようになる」
「…ああ」

無表情に頷くこの少年と子供を真紹は、気に入っていた。



昏睡状態から覚めた途端、その牙を隠すことなく真紹に剥いて見せた少年。
自分をこの少年に会わせた子供は、見るからに妖怪の子供で、無防備なようでいて無防備ではなく、意識のない少年を、自分を取りまく全ての者から守るように、片時もその傍を離れなかった。
少年の傷の手当てをする間、真紹を燃えるような黄金の瞳で睨みつけていた。

少年が目を覚ませば、途端に警戒を解く。
子供が無事と知れば、その警戒を緩める。

何も言わず、子供のことを慈しむような瞳で見つめる少年と儚いようで強く、何より少年を慕う子供。
見た目と中身のギャップに驚かされもしたが、そのアンバランスさが、どうしようもない庇護欲を真紹の心に生み、いつの間にか真紹は、この二人に手を貸してやりたいと願うようになった。



「さんぞ、水につけてきた」

ぽたぽたと水を滴らせた手を振り回して、悟空が戻ってきた。

「てめえ、濡れた手を振り回すな!」
「あ、ごめん」

三蔵の怒鳴り声に、悟空は慌てて濡れた手を後ろに隠す。
そんな二人の様子を面白そうに見ていた真紹は、悟空に手を出すように言った。
真紹の言葉におずおずと両手を前に差し出した悟空は、心配そうな顔をしていた。

「何もしないよ、ほら、赤くなった所に薬を塗ってあげようと思ったんだよ」
「何で、薬塗るの?ケガしてるのはさんぞだから、さんぞに塗ってよ」
「健気なことを言うんだねぇ。おじさん、抱きしめちゃう」

言うなり、真紹は悟空を抱きしめた。
その突然の行為に、三蔵はあっけにとられ、悟空はカエルが潰されたような声を上げた。

「…ん、ヤだぁ」

バタバタと暴れる悟空の声に我に返った三蔵が、真紹の背中に銃を突きつけた。

「湧いてんのか、オヤジ」

ごりっと押しつける銃口に真紹は、苦笑いを零して、悟空から身体を離した。

「いやぁ、つい、可愛いもんでな」

くしゃっと悟空の頭を掻き混ぜると、赤くなった悟空の手に薬を塗りだした。
銃をしまいながら、三蔵はどうするか、考えた。



熱いのがわからない。



空腹や乾き、眠気や疲労は、割と簡単にその感覚が戻ってきた。
それが人間の基本的な欲求の上にあるモノだからだ。
しかし、熱い、痛い、寒い、冷たい・・・そんな感覚はどうすれば戻って来るのだろう。

声しかしないあの敵に傷つけられても、痛みは感じてなかった。
蓬瑛との戦いの時、確かに悟空の感覚は戻っていたのだろうが、そのショックから立ち直れば、何も覚えていないと言う。
自分の身体が思うようにならない今、感覚を戻す手助けをしてやれないことに、三蔵は苛立ちを覚えた。
せめて、熱いを理解しないとまた、火傷を負う可能性が高いからだ。

世話を焼かせやがって…

じっと、大人しく真紹の治療を受けている悟空の姿を見ながら、三蔵は小さく舌打ちした。











夜中、悟空は消え入りそうな声で目が覚めた。

三蔵の傍を離れない悟空のために、三蔵が眠る部屋の床に布団が敷かれ、そこで悟空は眠っていた。
眠い目を擦りながら身体を起こす。
声は、三蔵の眠る寝台から聞こえた。

「さんぞ?」

もそもそと起き出して、常夜灯の明かりを頼りに近づけば、三蔵が荒い息を押し殺すようにして寝台に踞っていた。
悟空は、そんな様子の三蔵の丸めた背中にそっと、触れた。
途端、大きく体が跳ねる。

「さんぞ?さんぞ…?」

うつむいた三蔵の顔を覗き込むようにして名前を呼べば、酷く頼りなげな紫暗が悟空を見返した。

「…ご、く…う…?」
「うん。どうかした?」
「な…何でも……な…い」

荒くなる息をさもたいしたことがないと言うように、三蔵は悟空に笑いかける。
だが、見返す紫暗の頼りなさに悟空は、三蔵の言葉を信じない。

「そんなわけない。さんぞ、なんか変だよ」

そう言って三蔵の身体を起こそうとした悟空の手が、止まった。
そして、ゆっくりと瞳が見開かれる。
その様子を三蔵は苦しい息の下で、見つめていた。

「さんぞ、身体…熱い?」

呟くように漏れた言葉に、今度は三蔵が瞳を見開いた。

「わか…るのか…?」
「…熱いって、このこと?」
「ああ…そ…くっ…」
「さんぞ!」

悟空の言葉を肯定してやろうと頷いた拍子に痛みが身体を走り抜ける。
思わず上げた声に悟空は、顔色を変えると、部屋を飛び出して行った。

すぐに真紹が駆け込んでくる。

三蔵の様子に真紹は、痛み止めの注射を用意する。

「夕方から、熱がぶり返してたんだろうが。我慢もいいが、ここは病院で、お前は患者だ。患者は医者に甘えて、我が侭を言っていいんだ」

怒った口調でそう言うと、三蔵の腕に注射をした。
そして、汗に濡れた顔を見やって、ため息を吐く。

「少ししたら、痛みも熱も引く。そうしたら眠れるはずだ」
「…わかった」

頷いて顔を上げれば、部屋の入り口に悟空が立ちすくんでいるのが見えた。
三蔵はため息を一つ吐くと、真紹に熱湯を持ってきてくれるように頼んだ。
どうするのかと問いかける眼差しを無視して、三蔵は悟空を傍に呼んだ。

「…さんぞぉ…」

今にも泣き出しそうな顔で三蔵の側に来ると、寝間着の裾を握りしめる。
その手にそっと、自分の手を重ねると、三蔵は口を開いた。

「悟空、俺の手は熱いか?」
「えっ?」

透明な膜の張った金眼が、熱で潤んだ紫暗を見返す。

「どうだ?」
「…熱いよ、さんぞ」

ふぇと、泣き出しかける。
それを重ねた手に力を入れることでこらえさせる。
そこへ、真紹が熱湯の入ったやかんを持ってきた。

「それ、こっちへ持って来てくれ」
「熱いぞ」
「だからさ」

そう、返事をして三蔵は悟空の手を取ると、真紹が下げているやかんに触れさせた。
途端、

「熱いっ!」

そう叫ぶなり、三蔵の手を振り払った。

「それが、熱いだ。忘れるな。いいな」
「これが…熱い……」

少し赤くなった指とやかん、三蔵を見比べた後、嬉しそうに笑った。

「俺、もう忘れない、忘れないよ」

その笑顔に三蔵はほっと、息を吐き、自分が酷く緊張していたことを知った。
そのことが何となく、気恥ずかしくて、三蔵は寝台に横になった。

二人の行動を理解できないで見ていた真紹は、面白い二人だという印象を深めた。

横になった三蔵が寝息を立て始めたのを見届けた真紹は、悟空にもう寝なさいと告げて、部屋を後にした。
扉を閉める寸前、真紹は悟空にだけ聞こえるように礼を言った。

「うん!」

満面の笑みで誇らしげに頷く悟空に笑みを返して、真紹は扉を閉めた。




旅立ちはまだ、遠い。




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